宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる。

新約聖書 マタイによる福音書6章6節

I

先程歌いました讃美歌に「静けき祈りのときはいと楽し」とありました(讃美歌310番)。この曲はこの学校でもよく歌われるものの一つですし、日本の教会においてもよく知られ歌われる讃美歌だと思います。この歌詞を見ていただければわかるように祈りということをテーマに取り上げたものです。
聖書においても、イエスは何度か祈ることを教えています。一番有名なのはイエス自身が弟子たちにこう祈りなさいと教えた「主の祈り」でしょう(今日読んだ聖書のすぐ後の部分です)。今日の聖書において、イエスは、人前で目立つように大声で祈らなくてもいいのであって隠れた場所で静かに祈りなさいと語っています。今日の讃美歌の歌詞にも共通する考え方のようです。言葉数を多くしてくどくど祈らなくても、神さまは願う前から必要なものを知っておられるとも言っています。静かに、一人で、短く祈るということがイエスの理想とする祈りの姿だったということになるわけでしょうか。
そして、キリスト教を信じているとかいないとかに関わらず、祈るということは無意識のうちに多くの人が行っていることなのかもしれないとも思うのです。「困ったときの神頼み」という言葉もありますが、わたしたちは自分の力だけでは何ともならないようなことに直面したときに思わず何かに祈ってしまうようなことがあるのだと思います。「何とか助けて下さい」とか「どうにかして下さい」というような祈りをした人もいるでしょうし、口にはしなくても心の中に思い浮かべた経験を持つ人はもっとたくさんいるだろうと思います。そう言っているわたし自身もその中のひとりです。

II

けれども、何かに祈ったとしても何の解決にもならない。祈るなんていうのは弱い人のすることだと考えている人々もいます。わたしは、以前ある人に「キリストに祈ったからと言って何か良いことあるんですか。その通りになることなんてあるんですか」と言われたことがあります。そのときわたしは「祈ってもいないのにそんなことを言うな。やってみてから言いなさい」と答えました。わたしの言葉はある意味において彼女の問いに対する答えになっていません。でも、わたしは祈ってもいないのに祈ることは無意味だと決めつけて欲しくはなかったのです。何の解決にもならないと思って欲しくなかったのです。今もその気持ちは変わりません。皆さんには苦しいときも楽しいときも祈って欲しいですし、そんなの無駄だと言って欲しくはありません。
平和ということについてもそうです。誰もが平和な世界の実現を望んでいます。願っています。しかし、この世界のどこかで戦争や紛争があり、苦しんだり傷ついたりしていうr人々がいるわけです。皆さんはテレビや新聞などでそういうニュースを眺め、「かわいそうだ」「何とかならないのか」と考えることでしょう。
では、一体わたしたちに何ができるのか。少なくとも一つできることがあります。それは、祈ることです。誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたり、生命の危機に瀕していたりする世界が変わるように祈ることです。わたしたちは、自分たちが生きている世界が本当に平和になるようにと祈ることはできるはずなのです。人前で目立つように祈らなくてもいいし、くどくど祈らなくてもいいのです。短い時間でいいのです。そう願って祈ることがもしかしたら世界を変える力となるかもしれないと、わたしは信じるのです。