宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。

旧約聖書 箴言11章24-25節

I

今わたしは三年生の授業で「あなたにとって大切なものとは何か」ということを考えてもらっています。もちろん大切なものとは時と場合、状況によって変わってくるでしょう。けれども、多くの皆さんが大切だと思っているものは共通しています。すなわち、自分を取りまく人間関係(家族とか友達、恋人)を大切だと思っている人がとても多いわけです。それは当然と言えば当然のことでしょう。
自分を支えてくれる人々がいなければ、わたしたちは生きていくことが難しいのです。ひとりぼっちで生きていくことは、今の時代現実的に考えてみると無理だろうと思います。ですから、自分を助け励ましてくれたり、共に生きてくれる人々はわたしたちそれぞれにとってとても大切なものなのだろうと思うのです。それらの人々はお金では買うことのできないものでもあります。レンタル家族とかレンタル友達をお金を出して借りるというわけにはいかないのです。そして、もしそういうことが可能だったとしても、それがわたしたちにとって大切なものとなるかどうかは疑問です。
わたしたちは今ある自分の人間関係を大切にしなければならないと考えているのです。失ってしまうと取り返しのつかないことになってしまうこともあるからです。それらの人々がかけがえのない存在であるからです。さらに、これからの人生で新しく出会い知り合った人々とも大切なかけがえない関係になるかもしれないということは心得ておかなければならないと思うのです。

II

けれども、わたしたちはそのような人々との深い人間関係のみで生きているのではないということも事実です。名前も知らない多くの人々がわたしたちの生活を支えてくれているから生きていけるのです。もちろんそれらの人々の存在は普段意識されることは少ないことでしょう。例えば、世界中にわたしたちが食べる食べ物を作ってくれている人がいます。もし、そのような人々がいなければ、わたしたちの生活はどうなってしまうのでしょうか。想像もつきません。
このことに代表されるように、わたしたちは自分では気づいていないけれども、多くの人々に支えられて生きているのです。病気になれば医者にかかり、必要な物があれば買い物に行き、誰かがいるからこそ生きていけるのだと思うのです。わたしたちの生きる世の中とはそのようにして成り立っているのです。
そして、わたしたち自身もそのような名前も知らない多くの人々を支える側になれるということに気づきたいと思うのです。このことは、もしかすると自分がよく知っているかけがえのない人々を支えることよりもずっと難しいことかもしれません。なかなか見えてはこないので、知らないままで済ませることもできてしまうのかもしれません。

III

今日わたしたちは献金をします。これもまた、誰かを支えるわたしたちなりの行為です。わたしたちの生きるこの世の中において名前も知らない人々がおり、わたしたちよりも困難な状況におかれている。病気になっても医者になかなか行けず、必要なものがあっても買うお金がその手にない人々です。しかし、そのような人々に対してわたしたちは手をさしのべることができます。少なくとも願いと祈りとをもって献金を送ることはできます。
わたしたちを支えてくれる人がいることは、わたしたちを励ましてくれます。強くしてくれます。わたしたちは、ともすれば身の回りにいる大切な人たちとの関係だけあれば良いと考えてしまうのかもしれません。でも、もう一歩前に進んで、わたしたちもこの世の中にいる誰かを励まし強くすることができる可能性を持っていることに気づきたいと思います。そして、そのような行為をこれからも続けていきたいと願います。