宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。

旧約聖書 イザヤ書32章17節

I

「人がその人として生きていく権利」のことを人権と言います。わかりやすく言い直せば、誰か他の人がその人の好き嫌いを強制することはできないし、してはいけないのだということです。ジャムパンが好きな人もクリームパンが好きな人も、パン自体があまり好きではない人もそれはそれでいい。昼ご飯に弁当を食べる人も、うどんを食べる人もカツ丼を食べる人もいていい。他人からこうでなければならないと強制される必要はないのだ、ということです。
しかし、かつてのこの国は「みんなこれを好きになりなさい」「こうじゃなきゃ駄目」というようなことを強制してきた歴史を持っていると思います。その人がその人として生きていく権利よりも、国がやろうとしている目的のためにみんなが一致団結することの方が大切なことだとされたのです。戦争に勝つという目的のためにです。個人の好き嫌いは言っている場合ではありませんでした。ジャムパンやクリームパンは口にできなかったし、弁当やうどんやカツ丼は一部の限られた人しか手に入りませんでした。「欲しがりません、勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」と言われていたのです。
日本国民は天皇を中心にまとまって戦争をするのだ。故に、個人の好みなんてどうでもいい。個人の自由なんてない。人権なんて言っている場合ではない。男性は皆兵隊になって戦争に行く。そして天皇のために死ぬ。女性は男性がいなくなったこの国を支え、子育てをし、何とかこの戦争がうまくいくようにする。そういう考え方が当然だと教えこまれました。ですから、その人が何を信じるかも強制されました。「天皇は神さまだ」と信じない人は、捕らえられて牢獄に入れられました。どうしても「天皇は神さまだ」と言わなかった人の中には拷問を受けて殺された人もいました。

II

その戦争はやがて日本が負けて終わりました。現在の日本国憲法ではひとりひとりの人権が保障されていますし、公共の福祉に反しない限りはその人が何を信じようといいと言われています。今「天皇は神さまだ」と信じなくても牢獄に入れられることはありません。ジャムパンやクリームパンもお金を出せば手に入り、口にすることができます。しかし、昨年制定された「国家・国旗法案」に代表されるように、大きな流れが動いているように思われてなりません。日本国憲法を改正しようという動きもあります。再び、人がその人として生きる権利を奪って、象徴であるはずの天皇をまた担ぎ出し、戦争のできる国になろうとしているのではないかと不安に感じることがあります。
わたしは断じてそうであってはならないと考えます。ここにいるわたしたちの多くはあの戦争の時代のことを知りません。経験していません。わたしもそうです。けれども、「人がその人として生きていく権利」が保障されないのは嫌です。親しい誰かを戦争に行かせるのも嫌だし、自分が誰かから殺されるのもまっぴらごめんなのです。わたしは、わたしの人生を生きていきたいのです。そして、みんながそうであって欲しいのです。何を人生の道しるべとして生きるのか、何を信じていきるのか、自分自身で決めたいと思うのです。人がその人として生きる権利を脅かすあらゆる力に対して、「嫌だ」「否」と言い続ける勇気を持ちたいと願います。わたし自身も持ちたいし、皆さんにも持って欲しいと思います。