宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。

旧約聖書 ミカ書6章8節

I

わたしのようにあまり甘いものを食べない人間にとってもお土産はお菓子というのが定番です。昨日2年生が修学旅行から帰ってきましたが、京都名産「八つ橋」が大量に持ち帰られたのではないと推察しています。かく言うわたしにも京都に住んでいた7年間、帰省の度に京都名産「八つ橋」を買ってきて欲しいというリクエストが寄せられたものです。お菓子というのはおおむね人に喜ばれるものです。でも、正直なところ、人に本当に喜ばれるものをあげたいとも思うのです。お菓子のようなみんなにとって無難なものではなくて、その人その人にぴったりというものをあげたいと思っているのです。
わたしたちは他人に何かを渡したいと思いながら、なかなかうまく渡せないでいるジレンマの中にいるのかもしれません。あるいは、他人が欲しがっているものを自分自身が持っていないと自覚する状況の中にいるのかもしれません。だから、うまく他人に贈り物ができません。望むものがわかっていたとしても、それを与えられるかというのは極めて難しいのです。教師になってそんなに長くはないわたしですが、試験だの受験だのの時期になると、「もし、わたしの持っているものが試験合格の通知だったり、センター試験の点数だっだりしたなら」と思うことがあります。担任の先生ならもっとでしょう。しかし、わたしたちがそれを与えることはできません。それぞれの頑張りを期待し祈るのみです。胸を焦がしながら待つだけです。

II

他人に喜んでもらえるものは何だろう、その人が欲しいものは何なのだろうという問いを繰り返すうちにもうひとつの問いが胸に浮かんできました。果たして神さまが喜んでくれるものは何なのだろうかということです。神さまは何をわたしに願っておられるのだろうか、神さまが喜ぶものって何なのだろうと考えました。それは、わたしは神さまに何を贈ることができるのだろうという問いとなって迫ってきました。
神さまに、そして他人に、何を贈れるのだろうという問いかけは聖書の中にもあります。自分自身が渡せるものの中で一番喜ばれるものは何なのだろうということです。今日読んだ聖書もそういう箇所です。預言者ミカは、それはもうすでに告げられていると語ります。神さまにたくさんの献げ物を献げるよりも、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」だというのです。
自分の側に引き寄せて考えてみたいと思います。正義とは、自分自身の利益や損得だけを考えて行動するのではなく、色々な人のことを考え、相手の立場に立って行動すること。慈しみとは、他人を大事に思い、他人に対しての思いやりを持つことかもしれません。へりくだって神と共に歩くというのは、自分がひとりで生きているのではなく、様々な人の助けを借りながら、そして神さまに守られながら存在していることに気づき、感謝し生きるということかもしれません。たくさんのシナモノを贈ることを神さまが喜ぶのではなくて、わたしたちの生きていく姿勢をこそ神さまが喜ぶのだと語られているわけです。
他人が望むものをなかなか渡せないでいるのがわたしたちなのでしょう。わたしたちが持っているものというのも、そうたいしたものではないのでしょう。しかし、お互いの関係の中で「正義を行い、慈しみを愛し」ながら支え合うとき、そこには神さまが共に歩いて下さる道があります。神さまはそれをどんな献げ物よりも喜んで下さるというのです。わたしたちは、たとえ自分の持っているものがわずかだとしても、隣人たちにそして神さまに本当に喜んでもらえる贈り物をすることはできるのだと、そう信じます。