宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

新約聖書 ヨハネによる福音書1章1節

I

わたしは授業や試験で生徒に文章を書かせることが多くあります。思っていることを文章にするのは、そう簡単なことではありません。かなり難しいことだと思います。わたし自身も、様々な人々に語りかけながら、自らの言いたいことが整理できないもどかしさや難しさを感じています。文章を書くことの難しさを自分でも十分わかっているつもりです。でも、どうして文章を書かせようとするのか理由があります。そして、やめたくなる気持ちをぐっとこらえて、こうやって皆さんに語る言葉を綴るのにも理由があります。
何故なら、わたしは言葉の力を信じているからです。わたしは人を生かす言葉を語りたいし、みんなに人を生かす言葉を語って欲しいと願っているからなのです。言葉は人を生かしもするし、殺しもする、とても力のあるものです。普段わたしたちはそんなこと意識もせずに言葉を使っています。けれども、古来からこの国で、言葉は「言霊」であると、言葉の中には不思議な霊力が宿っているのだと考えられてきました。言葉というものにはとても不思議な力があるんだと人々は考えていたのです。
言葉は人を殺す力もあります。「馬鹿。死ね」と言われて、自ら生命を絶ってしまった人がいます。「お前なんか邪魔だ」と言われて、本当にいなくなってしまった人がいます。人を殺さないにせよ、傷つけてしまうことはしばしばあります。誰かから言われた言葉で深く傷つけられたり、あるいは自分が不用意に言った言葉で誰かを深く傷つけたりすることがあるわけです。でも、逆にわたしたちは誰かを励ます言葉を語ることもできるのです。死にそうな人に生きる勇気を与えたり、あきらめかけた人に立ち上がる気力を与えたり、困っている人に解決の糸口を見出させたりする言葉を語ることもできるはずなのです。

II

ヨハネによる福音書は「はじめに言葉があった」と言います。さらに「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿った」とも言います(※1章14節)。これを「受肉論」と呼び、難しい説明で片づけようとした本はたくさんあります。けれども、わたしはこの聖書の言葉を、「はじめに人を生かすものがあった。」あるいは、「はじめに人を生かす言葉があった」と読みたいと思っています。
2000年昔、イエスという一人の男がユダヤというところに生きていた。それは単なる歴史的事実の一コマにすぎません。過ぎ去った過去の話で、今を生きるわたしたちとは何の関係もない話だとしてしまうこともできるのかもしれません。でも、イエスの語った言葉は、過去の出来事だということを超えてわたしたちに語りかけてきます。イエスの言葉が、わたしたちに語りかけてきて、わたしたちを励まし、生きる勇気を与えるものとなり得るのです。
イエスがやったことや語った内容というのは聖書の中にしかありません。そして、言葉で書いてあります。そこから読み取るしか方法がありません。しかし、それらの言葉は人を生かす事柄として、2000年もの間様々な人々を支え続けてきました。聖書の中にはイエスという人物が人間を生かそうとした言葉があり、多くの人々がそこから励ましを受けてきたことをわたしは思うのです。
聖書を読むということは、イエスの生涯が語りかけている言葉と出会っていくということです。それらを受け取りたいと思います。さらに、自分やそして他人を生かす言葉をわたしたち自身も語りたいと思うのです。難しいことかもしれません。しかし、生命の言葉を語りたいと心から願うのです。できる限りやってみたいと願うのです。