宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

新約聖書 マルコによる福音書4章25節

I

イエスが語るこの言葉はわたしにとってどうも納得できないものの一つです。正直腹が立ちます。どういうわけでイエスは「持っている人はもっと豊かになるけれど、持っていない人は持っているものまで取り上げられなくなってしまう」なんてことを語ったのでしょうか。これは、不平等のように思えます。冷たく突き放すようなものの言い方です。わたしはこの不平等さがどうも納得できないのです。
わたしたちの生きる世の中はどうも平等を目指しているように思えます。差別をなくそうと考えるのもそうですし、もしかすると革命や戦争というものの中にも不平等をなくし平等になろうとする意志や力が働いているのかもしれません。しかし、残念なことに依然として差別はありますし、革命や戦争も不平等を解消してはいません。それどころか、わたしたち個人個人のレベルでみても、色々なことが不平等です。貧しい中、困難な中に生まれてくる人もいれば、豊かに恵まれた環境の中に生まれてくる人もいます。持っている才能や能力にしても不平等です。

II

わたしは先日新大保駅のホームで落ちた人を助けようとした二人の人のことを考えます。あの二人は勇気ある人でした。迫りくる電車を知りながら、ホームへ飛びこみ、見ず知らずの人を助けようとした。これはすごいことです。もし自分だったらどうしただろうと考えてみても、答えは出ません。でも、あの二人はホームに飛びこみました。そして、帰らぬ人となりました。
あの二人はイエスの言う「持っていない人」ではなかったはずです。むしろ、「持っている人」だったのだと思います。判断力や勇気をはじめ色々なものを持っていたのだと思います。が、生命までも失ってしまった。そこにやるせなさを感じます。不条理だし、不平等です。
けれども、あの行為の中にイエスの言葉を解く鍵があるように思います。ホームで人を助けようとした二人は誉められたいと思ってそうしたのではなかったでしょう。不平等な世の中を変えようと思ってしたわけでもないでしょう。ただ、そうせざるを得ない何かに動かされて、ホームに飛びこんだ。今自分のできることをしようとしたのです。それに意味をつけようとするのはわたしたちです。

III

もしかすると「あの人は色々持っている、それに比べてわたしは……」と言い合ったり競い合ったりすることは無意味なことなのかもしれません。わたしたち人間が、平等だとか不平等だとか、あの人はこの人はと言い合っているのを越えたところにイエスの言葉の真意があるのかもしれません。
わたしたちが生きているのは決して平等な世の中ではありません。わたしたちそれぞれが持っているものも平等ではありません。でも、今現在、持っている持っていないにかかわらず、おそらくわたしたちは何かを失いながら生きています。そして同時に、何かを手に入れながら生きています。悔しいことに全てを失ってしまうこともある。反対に、多くを得ることもある。
失わないようにと守り続け大事にするだけならば、気づかないうちにもっとたくさんのものを失ってしまうこともあるのでしょう。失ってもいい。失うかもしれない。でも、恐れずに、今自分の持っているものを充分に用いること。それがわたしたちを本当に豊かにするかもしれないと考えるのです。今日、イエスの言葉の意味をわたしはそこに見いだします。