宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。

新約聖書 コリントの信徒への手紙 I 1章4節

I

わたしたちは一日に何回くらい「ありがとう」という言葉を口にするのでしょうか。自分自身に対しては使わないでしょう。誰かが自分に対して何かをしてくれたときに、感謝の気持ちをこめて「ありがとう」と言うわけです。もし、誰かが自分に何かをしてくれるのが当然のことであると考えていたなら、「ありがとう」という言葉は口から出てこないでしょう。誰ともかかわりないつもりになって、自分ひとりで勝手に生きているんだと考えているとしたなら、「ありがとう」という言葉を言う必要もないでしょう。
しかし、わたしたちは自分ひとりで生きているのでもないし、誰かからお世話をしてもらわずには生きていけない存在です。誰かに迷惑をかけたり、誰かの手を煩わせたりしています。毎日まわりの人から何かをしてもらって生活しているはずです。それらの人々に対して感謝の気持ちを少しでも表そうとするのが「ありがとう」という言葉なんだと思います。わたしたちの毎日は「ありがとう」という言葉と無縁では送れないはずなのです。

II

聖書にはこの「ありがとう」という言葉がたくさん出てきます。誰かに対する感謝の気持ちをこめた「ありがとう」もありますし、何よりも神さまに対してたくさんの「ありがとう」が書いてあります。それも普通だったら感謝できないような状況にあっても「ありがとう」と言っている部分があるのです。
今日の聖書はパウロという人が書いたものですが、これも神さまへの「ありがとう」が書いてある部分です。パウロはコリントの教会にあてて手紙を書き送っているのですが、当時のコリントの教会は仲間割れをしていてめちゃくちゃな状態にあったと言われています。「何をやってるんだ。いいかげんにしろ」と怒鳴りつけたくなるような状態にあったわけです。
それなのに、今自分は神さまに感謝しているとパウロは書いています。神さまが全ての面でコリントの教会の人々を豊かにして下さっているので自分は神さまに感謝するのだと言っています。そして、コリントの教会の人々はイエス・キリストにあって神の恵みを受けているから感謝するとも言っています。

III

パウロは神さまの恵みを数える訓練をしていたのだとある牧師が言っています。様々な状況や色々な場面の中に神さまの恵みを見いだし数える訓練をしていたのだというのです。その考え方が正しいとすれば、怒りだしたくなるような、どうしてこうなるんだろうと思うようなそんなときであったとしても、神さまの恵みを感じ取っていたのだということです。そして、それに対して「ありがとう」と言い続けていたんだということです。
振り返ると、わたしたちにはなかなか神さまの働きが見えません。感じ取ることもできにくいのかもしれません。さらに、自分がまわりの誰かから何かをしてもらうことすらあたり前 と感じてしまっていて、自分のまわりの人々の働きすら本当には見えていないのかもしれません。だから「ありがとう」と口にするのが難しくなっているのかもしれません。
毎日の生活の様々な場面で、もっと目をこらして色々なものを見つめたいと思います。そうすることで、今まで見えていなかったものが、感じ取ることができなかったことが、少しずつ見えたり感じられたりするようになるのではないでしょうか。そして、わたしたちそれぞれに働きかけている何かに対して「ありがとう」と素直に口にできるようになるのではないでしょうか。なかなか難しいかもしれない。でも、わたしたちは毎日毎日たくさんの何かを神さまやあるいはまわりの人々からもらって生きているのだと思います。