宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種より小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

新約聖書 マルコによる福音書4章30-32節

I

二人が出会ったのは運命だったとか、今日はこうなる運命だとか言うことがあります。わたしたち人間存在を越えたものが、わたしたちを動かしている。それが何だかわからないけど、確かにそうだ。そう思うようなとき運命という言葉を用いるように思います。けれども、ときどき運命というものが否定的な面で語られることもあると思うのです。運命だから仕方ないとか、どうあがいても無駄だとか、そう言ってしまうことがあるわけです。
確かに人生とは自分が思い描いている通りにはなかなか進まないものです。こうなったらいいのにと考えたとしても全く逆になってしまったり、よかれと思ってしたことが最悪の結果を招いてしまったりすることもあるわけです。落胆し、落ちこんだりする中、これは運命だったと言いたくなる気持ちはわかる気がします。

II

イエスの時代にも似たようなことがあったようです。ファリサイ派と呼ばれた人々が民衆に対してそう教えたのです。約束された未来はみんなのためにあるのではなく、一握りの選ばれた人々のためにある。律法が守れない者は神の国に入れないと語ったのです。選ばれた人のみが行くことができる特別な場所が神の国であり、選ばれなかった人々はこの先どうなろうとも運命なんだから仕方がないと教えていたのです。運命という言葉であきらめることを教えこもうとしたのです。
それに対してイエスはファリサイ派の人が語っているようなものが神の国ではないと言っています。神の国とは一粒のからし種のようなものなんだと語ったのです。からし種とは一粒が一ミリくらいの本当に小さな種です。人々の生活に身近にあった何気ないものです。イエスはそのような小さなもの、とるに足らないものに神の国をたとえているのです。

III

一ミリの種が土に植えられ、大きく成長していくその中にイエスは神の国を見ています。神の国とはどこか遠いはるか彼方にあるものではなく、人々の生活に身近なところにあると語っている。おそらく、わたしたちの様々な日常の出来事の中に神の国があるんだと言っているのです。運命によって定められていて、選ばれた人がやがて行くようになるようなところじゃないんだと言っているのです。
そう考えてみると、運命という言葉でもって何かをあきらめてしまいたくはないのです。わたしたちの生きる今を神の国とする。言い換えれば、それぞれ自分の思い描く事柄を、夢や希望を日々実現していくということでしょう。約束された未来を獲得していくということでしょう。それは決してあきらめからははじまらないのです。