宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

旧約聖書 創世記2章7節

I

旧約聖書によれば、人間は神によって創られたということになっています。神がわたしたち人間を形づくった。そして、最初に命の息を吹きこんでくれたというのです。そんなことはない、人間は人間自身が造ったものなんだと思うかもしれません。あるいは、神なんていう存在はこの世にいないのであって、信じられないと思うかもしれません。
でも、わたしたち人間が母親の胎内を出て一番最初にしたことは何だったでしょうか。憶えていないと言わないで下さい。常識的に考えてみればわかります。赤ちゃんが母親から生まれ出て最初にすることは「オギャー」という瞬間に息をすることのはずです。もし万が一息をしていない場合、医者や看護婦、産婆といった出産にかかわる人々は一生懸命息をさせるように努めることでしょう。生きるということは絶え間なく息をすることです。わたしたち人間は呼吸をすることなしに生命を保っていることはできないのです。酸素を体内に取り入れないと生きていけない身体なのです。

II

聞くところによれば、わたしたちが肺で行う肺呼吸のはじまりはこういうことなのだそうです。母親の胎内から出てくるときに細い管(産道)を通る。細いところを通るため肺がぐっと押さえつけられている。やがて生まれ出る際に、その押さえつけが解放され、最初の息が肺に入ってくる。そして最初の息を吐き出すときに「オギャー」という産声をあげるとのことでした。まず、人間の体内に息が入ってくるわけです。吐き出すよりも、入ってくることの方が先なのです。
古代の人々はこのことを知っていたのでしょうか。わかりません。けれども、創世記を書いた人は人間が神によって生命の息を吹き入れられ生きる者になったと記しています。まず、神から吹き入れられた息が体内に入ることで生命がはじまったのだと書いているのです。
そして、生命の終わりのときはその逆です。「息を引き取る」と言いますように、呼吸をやめるときが人生の終わりであり死であると考えられています。息を吐いて二度と吸いこむことがない。わたしたち人間の臨終の場面です。神が吹き入れた息を出し切ってしまうことで終わりを告げるのです。その瞬間は看取る者にとってはとてもつらく厳しいものです。

III

自分の人生は自分自身のものであり、どう生きようと自分の勝手なんだという言葉を聞くことがあります。しかし、そのような言葉を聞く度にわたしの頭によぎるのは今言ったようなことです。わたしたち人間が何故この世に生まれ、何故この世から去っていかなければならないのかということを考えるとき、ふと思い出すのも今言ったようなことです。
わたしたち人間の人生は自分という存在を越えた何かによって生まれさせられたものなのではないかと考えるのです。でも、それは運命だとか定めだとかいうあきらめや仕方なさにつながっていくものではないはずです。むしろ、わたしたちの生命をかけがえなく、とても大事なものとしてくれる存在がかかわってくれている事柄なのではないかと思います。聖書はその存在を神と言い表しています。神は、わたしたちそれぞれの誕生のときに生命の息を吹き入れられ、わたしたちを今ここに生きるひとりの人間として下さっているのです。