宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。

新約聖書 ルカによる福音書12章56節

I

わたしは津軽の出身ではありません。ですから、弘前に来たばかりのときみんなが話す言葉が今ひとつわかりませんでした。微妙なニュアンスが伝わってこなかったのです。誰かが話した言葉の意味はどういうことなのだろうと考えることもありました。何を言っているのだろうと疎外された気分になったり、他の先生方に言葉の意味をお聞きすることもありました。でも、わからない言葉が出てきたときにはなるべく説明してくれるように求めました。そのおかげで今ではだいぶわかるようになったつもりです。そして、津軽弁をずっと使い続けてきた人にはおそらくお聞き苦しいでしょうけれど、わたし自身も話してみることがあります。
わたしがよく言う言葉のひとつは「まい」という言葉です。皆さんが「まいね」とか「まいよ」というふうに使う言葉です。わたしはこの「まい」という言葉の響きがどういうわけか好きです。「そんなことやっちゃ駄目」とか「いけない」とか言うよりも、「それはまいよ」と言った方がずっとやわらかい感じがします。話している相手にすっと伝わっていくような感じがします。だから使ってみたりするわけです。伝わっているのかどうか自分ではわからないところもあるんだけれど、それでもやっぱり相手に「そういうことをしてたら駄目なんだよ」という意味をこめて「まい」と言うわけです。

II

けれども、実のところ、わたしはこの「まい」という言葉に考えさせられてしまうのです。私たち人間というのは誰でも自分でわかっていながら「まいよ」ということをやってしまうことがある存在だからです。わたし自身もそういうことがしばしばあります。今度のテストで頑張ろうと思ったのに様々な誘惑に負けてしまった。「まいね」です。学校に来て、真面目に授業を受けようと思ってはいるのに今日もまた駄目だった。「ホントにまいね」でしょう。誰か他人を傷つけてしまった。自分自身のことを「これだばまいね」と思うことでしょう。
しかし、わたし自身も誰かから「まいよ」と言われるような、そして自分自身で自分に「まいね」と言ってしまいたくなるようなそんなことを繰り返してきたのが正直なところなのです。他人から「まい」と言われたときには思い悩み、自分自身で「まい」と思うことをやってしまったときにはこれまた思い悩むというのが私たち人間の姿なのかもしれません。「これで良し」という人生を歩みたいと願いながらも、自分で自分に満足を感じて生きていきたいと願いながらも、「まいよ」と感じることも多いのだと思うのです。でも、別な面から見てみると、「まい」と思うことがあるからこそ、繰り返すからこそ私たちは成長できるのかもしれません。良いのか悪いのか、今の自分はどうするべきなのかを自分なりに判断することができるようになるのかもしれません。

III

大切なのは様々なことを感じることのできる心なのだと思うのです。自分自身で判断できる心を持つということです。「まい」ということも、「良い」ということも感じることのできる心を育てていくことこそが最も大切なことなのだと思います。不感症になってしまえば全てのことに無感動でどうでもいいとしか思えなくなってしまうことでしょう。全ての事柄に対して自分なりの思いを持ってのぞむことを学びたいと思います。「まい」と思えば何とかしてそこからやり直す。「良い」と思えばそのことをやり続ける。それが判断力です。そういうことを見極める力をつけたいと願うのです。