宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました。

新約聖書 エフェソの信徒への手紙2章17節

I

女性であるわたしにとって一番困るのは「お前、女のくせに」と誰かに言われること、そして口では言われなくてもそのような態度をとられることです。どうしてかと言うと、わたしが女性であることはたとえどのようにしても一生変えることのできない事柄だからです。更に、わたし自身変えたいとも思わないからです。自分の努力が足らないとか、もっと頑張れば何とかなるとかいうようなことを言われたのなら、努力のしようも頑張りようもあることでしょう。けれど、わたしが女性であることは、どのように努力しようと、どう頑張ったとしても変えられないのです。男性になれと言われたとしても、それでは明日からそうしますというわけにはいかないのです。「お前、女のくせに」という言葉は、そしてそのような態度は、わたしの人間存在をも否定するような言葉です。とても不愉快にさせる言葉です。わたしが生きてきた人生において何度となくこういうことを経験してきました。その度ごとにわたしは怒り、うろたえ、悲しみ、苦しみ、痛み、悔しい思いを繰り返してきました。でも、多分これからも何度か経験することでしょう。
考えてみると、何もわたしだけが特別そうなんだとは思いません。おそらく多くの女性たちが「女のくせに」と言われた経験を持っていることだろうと思います。そして、それだけではないのです。この社会には本当にたくさんの「ナントカのくせに」という言葉があります。「障害者のくせに」とか「被差別部落出身のくせに」とか「学校行ってないくせに」「若いくせに」といった本当にたくさんの「ナントカのくせに」ということがあるのです。その人の存在をも踏みにじるような言葉や態度が横行しているのがこの社会の現実のように思えてなりません。

II

国と国、民族と民族という大きな規模でもそうです。「ユダヤ人のくせに」とユダヤ人を抹殺していったのがヒトラー率いるかつてのナチスドイツでした。「黒人のくせに」と肌の色で人を差別した歴史、あるいは先住の人々(ネイティブアメリカンの人々)を追いつめていった歴史がアメリカという国には隠されています。もっともっとこの他にもたくさんあることを私たちは知っています。
この「ナントカのくせに」を少し難しい言葉で言うと、『排除の論理』と言います。他者を選び、選別し、排除していくことが『排除の論理』です。自分たちに合う、自分たちと同じ人だけを集めてグループを作り、合わない人や違う人を仲間はずれにしていくことです。多くの場合、仲間はずれにされる人は劣ると見なされた人々、立場的に弱い人々、少数者です。
しかし、これは決して正しいことではありません。断じて許されることではありません。仕方のないことでもありません。というのは、自分たちだけ良ければあとの人はどうでもかまわないということだからです。はずされた人々が不利益を被ろうと、悲しい思いや悔しい思いをしようと、泣いていようともかまわないということだからです。そういう考え方の中には共に生きるという姿勢は全くありません。平和な世界というものはありません。

III

聖書において、平和はシャロームというヘブライ語に代表されます。この言葉は現在に至るまでイスラエルの人々の挨拶の言葉として用いられるものです。このシャロームとは表面的に戦争や暴力のない状態のことを示すものではありません。人々の心の内面にまで踏みこんでいき、そこにもし排除や差別というものがあるとしたならシャロームとは呼ばないのです。ですから、挨拶としてのこの言葉は私たちはまだ本当に平和な状態ではありませんが、いつかやがて本当の平和が来ますようにという願いと祈りをこめて使われるわけです。
今日の聖書にはイエス・キリストこそが私たちの平和だと記されています。これもまたシャロームの平和です。私たちが他者を選別していこうとするのをやめさせ、「ナントカのくせに」と排除していくのをやめさせようとしているのがイエス・キリストなんだということです。これから先私たちが目指すのもそういう平和です。覚えて下さい。忘れないで下さい。その上で、まず、自分自身に問いたいと思います。今自分にできるのは何なのかと。そして、自分が誰かを排除していないかどうか、誰かから排除されてはいないかどうか、いつも確認しながら生活していきたいと思います。