宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

新約聖書 フイリピの信徒への手紙3章12節

I

マラソン選手の有森裕子さんが何年か前オリンピックでメダルをとったときに言ったのは「自分で自分をほめてあげたいです」という言葉でした。かなり印象的な言葉でした。先日何気なくテレビを見ていましたら、その有森さんが出演していました。今度のオリンピックにむけて本格的な練習をはじめたのだそうです。でも、今の状態では「まだまだ自分で自分をほめられない」と言っていました。「自分で自分をほめてあげたいです」という言葉、そして「まだまだ自分をほめられない」という言葉。その二つの言葉の中、とりわけ「ほめる」という言葉には有森さんのマラソンに対する深い思いがあるのだろうと思ってテレビをながめておりました。
私たち人間は誰かからほめられるとうれしいものです。単純な性格のわたしなど誰かからほめられればもう本当にうれしいです。どんなささいなことであろうとも、どんなに小さな事柄であろうとも、やっぱりほめてもらえればうれしい気持ちになります。よしもっと頑張るぞという思いになったりもします。これはわたしだけではないでしょう。みんなそうなんだと思います。誰かから、すなわち親や教師、友人からほめられたというのは良い思い出として胸の中にしまわれるはずです。

II

しかし、残念というべきか不幸というべきか、なかなか他人は思うように自分のことをほめてはくれないのです。何か良いところをほめられるどころか、かえってけなされたりすることの方が多かったりもするのです。これができたらもっとこっちをやりなさいとか、もっと上手にきれいにできるようになりなさいとか、そう言われてしまうこともあるわけです。あるいは、ほめられると馬鹿にされたような気分になったりもするし、ほめてくれた人の裏側を見ようとしてしまったりすることもあるものです。ほめられても素直に喜べないということです。時に大人と呼ばれる年齢になってくるとそういう傾向が強まるようです。
けれども、ほめられることはその人を本当に成長させてくれます。これからを生きていく自信をつけてもくれます。そして逆に、誰かをほめることはその人の成長の手助けをすることです。その人のかけがえのない人生を応援することにもなります。私たちは誰もひとりぼっちで生きてはいけないし、様々な人間関係の中で育てられていくのです。ほめるほめられるというのもその中で起こるものです。これはお互いを支え、共に育てていくことにもなる大事なことです。

III

必ずしも一等賞になった人だけがほめられるに値する人なわけではありません。他人よりもはるかに優れたところがある人だけがほめられるに値する人なわけではありません。良い成績を取ったり、高い地位を得ていたり、お金をたくさん持っていたりする人だけがほめられるわけでもありません。私たちそれぞれの中には目に見えないものがたくさんあって、それこそがほめられるに値する宝物なのだと思います。その宝物とは、もしかすると、他人に見えないところで流した涙であったり、努力であったり、頑張りであるのかもしれません。あるいは、思いやりであったり心配りであったり、優しい気持ちであるのかもしれません。一歩を踏み出す勇気であったり、誰かに対する真実の愛であるのかもしれません。間違いなく言えるのは、それぞれの心の中にあるということです。誰にでもあるのです。そのことに気づいていないのは他ならぬ自分自身なのではないでしょうか。オリンピックでメダルをとることはできなくても、「自分で自分をほめてあげる」ことは誰にでもできるのです。
何よりもまず自分が自分自身の持つほめてあげられるところに気づきたいと願います。さらに、誰からもほめてもらえなくても、少なくとも神さまだけはそこに気づいてよしよしとほめて下さるはずです。まるで一等賞に値するくらいにほめて下さるはずです。私たちをいつも励まして下さるのは、そういう神さまだとわたしは思っています。そういう神さまに気づきたいと願います。