宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。

新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4章11節

I

大阪の高槻という町に江村利雄さんというおじさんがいます。わたしもこの方を直接に知っているわけではありません。江村さんは、先月まで高槻市の市長という仕事をしていました。けれども、4月の末、彼は1年任期の残っていた市長の仕事を辞めました。どうして辞めたのか。それは、病気を患って寝たきりになってしまったつれあいの登美子さんを自分自身で介護するためだそうです。
この辞任に際し「素晴らしいことだ」とほめた人もいました。その反面、「仕事というものは個人生活よりも大事なものなんだからそういうことはおかしい」と言った人もいたそうです。江村さん自身は「批判は承知の上です。けど、市長のかわりはおっても嫁はんのかわりはおまへん」と語ったそうです。わたしは「市長にかわりはおっても」という彼の言葉がとても印象に残りました。そして同時に、江村さんという人は何が一体自分にとって大切なのか考えた人なんだと思いました。市長という仕事や地位よりも寝たきりになって入院している自分のつれあいが一番大事なんだ、だから市長は辞めるという江村さんの言葉に考えさせられました。

II

皆さんは自分自身にとって一番大切なものが何であるか考えてみたことがあるでしょうか。お金でしょうか。勉強でしょうか。遊びでしょうか。洋服などのファッションでしょうか。それとも、地位や名誉を得ることでしょうか。自分の健康でしょうか。あるいは、もっと別なものでしょうか。
わたし自身よく考えてみると、お金や何かはあればあったで助かりますし、なければないで困りますが、本当に必要なもの大事なものとはそんなものではないことに思いが至るのです。わたしにとって本当に必要なものとは、わたしをとりまく様々な人間関係です。友達との関係や家族との関係が全く絶たれてしまって、ひとりぼっちで生きていかねばならないとしたらどうでしょうか。わたしは、とても困ってしまうことでしょう。そういう世界には生きていけないかもしれません。多分絶望的につまらない世の中になってしまうことでしょう。
わたしをかけがえのない人だと思ってくれる存在、そしてわたしがかけがえのない人だと思っている存在があるからこそわたしは毎日生きていけるのだと思います。だから、わたしは自分のまわりにいるたくさんの人々がとても大事です。

III

私たちは誰でも、ひとりで生まれてきて、ひとりで勝手に育ってきたのではありません。母親があり、父親がいて、その中で生まれてきました。家族があり、その中で育てられてきました。家族とは私たちにとって最も基本的な人間関係かもしれません。そして、家族だけではなく、やがて友達や恋人、仲間や同僚というような人間関係をも作っていくはずなのです。その中で、私たちは色々なことを学び、考え、経験し、失敗したり成功したりを繰り返しながら成長していくのです。
私たちを育ててきたのは、まわりにいる数多くの人々です。間違いなくそうです。私たちを愛し、支え、励まし、守ってくれた人がいるからこそ私たちは今ここにいるのです。江村利雄さんという人が市長の仕事を辞め、ひとりのおじさんに戻ったのも、彼を愛し、支え、励まし、守ってくれた人が登美子さんという存在であることをわかっていたからだと思います。「市長のかわりはおっても、嫁はんのかわりはおまへん」という彼の言葉はそういうことを意味しているのではないでしょうか。

IV

果たして、私たちは誰に愛されてきたのでしょうか。そして、誰を愛しているのでしょうか。誰をかけがえのない存在だとしているでしょうか。そして、誰からかけがえのない存在として思われているのでしょうか。誰から支えられているのでしょうか。誰から励まされているのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。言葉にして感謝することは難しいかもしれません。でも、心の中で感謝し、その人のことを祈ることは誰にでもできることなのではないでしょうか。