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人生は自分で決める

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章1節

I

 わたしは生徒の皆さんに対して、しばしば「どんな人になりたいか」と問いかけます。これは何も将来なりたい職業を早く決めて欲しいということではありません。自分のなりたい理想の姿やこうありたい自分を、それぞれが自分で考えながら成長していって欲しいと思うからのことです。そして、この学校での生活の中でそれに一歩一歩近づいていって欲しいし、そのための手助けをわたしたち教師がしたいと思っているのです。誰かに強制された人生を送るのではなく、それぞれが自分のあり方を自分で決めて欲しいと願っているのです。
 しかし、このことは皆さんには少し難しいことなのかもしれないと考えることもあります。「こうしなさい」「ああしなさい」と言ってあげた方が良いのかなと思うこともあります。でも、自分自身のあり方というのは他人に強制されるものでもないし、強制されてはいけないと思います。

II

 皆さんもご存じの通り、かつてこの国では国民のあり方が国家によって強制された時代がありました。個人の自由よりも国家の都合の方がはるかに優先された時代が続いたのです。というのは、「天皇は神である」と教えこまれ、天皇を頂点とする大日本帝国という国家が人々に「こうしなさい」「ああしなさい」と命令する時代が展開されたのです。「男は国のために戦争に行くのだ」という考え方や生き方が強制されました。「女は銃後の守りをする」という考え方や生き方が強制されました。個人の自由はあり得ませんでした。そこからはみ出す人は「非国民」と呼ばれました。「非国民」とされた人々の中には捕らえられて拷問の上殺された人もいます。
 本当は誰にも決めることのできない、自分自身で決めなければならない人の心の中が国家によって強制されたわけです。これはすごく恐ろしいことです。そうしてはいけないし、そうされてはいけないことが行われたのです。思想・信条の自由は守られなければならないと思います。わたしたちの生きるこの時代は、はっきりとしたかたちでの国家による強制は行われていないように思われます。しかし、静かに、とても巧妙に、思想・信条の自由が奪われつつあるのではないかとわたしは危惧しています。
 わたしたちそれぞれの人生は誰かに決めてもらうものではありません。そして、わたしたちの心の中も自分自身で決めることのできるものです。このことはあたり前すぎることかもしれません。しかし、このことの意味を皆さんそれぞれに考えて欲しいと願っています。

 

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弘前学院聖愛高等学校
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