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痛みの自覚

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

新約聖書 ルカによる福音書10章23節

I

 自分では自覚していないうちに症状が進行していくたぐいの病気があります。その一つがガンという病気です。今日この国で亡くなる人の一番多い病気なのだそうです。これは、とてもやっかいな病気です。自覚のないうちに病気が進行し、ついには痛み苦しみながら死に至るというのです。このことはわたしたちに強い恐怖心を抱かせます。「もし自分がそうなったら」と考えてみると、わたしにはとても耐え難いことのように思われます。
 しかし、このことからわたしはとても大事なことを考えさせられます。わたしたちが痛みを感じることは何と素晴らしいことだろうかということです。お腹が痛くなったり、頭が痛かったりするとわたしたちは「具合が悪い」と感じます。学校を休んだり病院に行ったり薬を飲んだりして手当をするわけです。怪我をすれば、シップ薬をはったり冷やしたりするわけです。どうしてなのか。それは痛いからです。痛いからこそ手当をし、その痛みをやわらげる必要があるのです。痛みを取り除く必要があるのです。もし痛みというものを全く感じないとしたなら、病院に行ったり薬を飲んだりする必要はなくなってしまうのだろうとさえ思うのです。

II

 けれども、これは単にからだのことだけではなく心のことにもあてはまると思います。わたしたちは自分の心が痛いという経験をすることがあるのです。自分が傷ついたとき、悲しいとき、苦しいとき、わたしたちの心は痛みます。そして、誰かを傷つけたとき、誰かを悲しませたとき、誰かを苦しませたとき、わたしたちの心は痛むのです。さらに、誰かが傷ついていたり、悲しんでいたり、苦しんでいたりするときにも、わたしたちの心は痛むのではないでしょうか。
 今日の聖書は「善きサマリア人」のたとえと呼ばれている箇所です。追いはぎに襲われた瀕死の旅人が道に倒れていた。そこを通りがかった祭司やレビ人はその人のことを見て見ぬふりで通り過ぎてしまった。ところが、三人目に通りがかったサマリア人は瀕死の旅人を助け起こして手当したというのです。「そばに来ると、その人を見て憐れに思い」と聖書は記しています。この「憐れに思い」というのは、原典ギリシア語では自分のはらわたがちぎれるような思いがしたということです。誰かが傷ついて苦しんでいるの見て、その人の痛みを自分の痛みとして感じ、それ故に、その人を放ってはおけなかったということだと思います。
考えてみると、わたしたちは自分の感じる痛みには敏感であっても他人の痛みには鈍感でいることが多いような気がします。あるいは、他人の痛みに気づかないふりをして済ませていることが多いような気がします。しかし、それはとても怖いことです。自覚症状の出ていないガンにかかっているのと同じかもしれません。やっかいな状態にあるのです。何とか治さなければなりません。誰か他人が痛んでいるのを自分の痛みとして感じ取ることのできる人になりたい、他人の痛みを想像し思いやることのできる人になりたいと願うのです。

 

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弘前学院聖愛高等学校
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