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「思いやり」と「心配」

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

新約聖書、マルコによる福音書第4章30−32節


I

 私たちが話している言葉の中には、とても意味の深い言葉があると思います。私たちは普段何気なく、ほとんど意識していないままに言葉というものを使っています。わたしもそうです。わたしは話すのが商売みたいなところがありますから、いろいろな言葉を使っています。けれど、そういう中で、はっとさせられ、本当に素晴らしい言葉だなあと思う言葉があるのです。最近わたしが思うのは「思いやり」という言葉と「心配」という二つです。この二つはとても深い、味わいのある、美しい言葉だと思います。
 「思いやり」とは、心の中にある思いを誰かにやるということです。すなわち、自分の心を誰かに渡すということ、自分のこと以上に誰かのことを思うことです。そして、「心配」とは心を配ると漢字で書きます。これもまた、自分の心を誰かに配る、思いを渡すということだと思います。心なんて自分ひとりのものだから誰にも渡せないと考えるかもしれません。自分自身が一番大事なんだから、誰かのことなんてその次にしか考えられないと思うかもしれません。
 しかし、私たちはそれぞれが心というものを持って生きています。心はとっても大切なもので、これなくしてはこれから先本当に困ってしまいます。私たちはこの心で色々な事柄を感じます。様々なことを思います。時々大きく揺れ動くこともあります。何かに出会ったとき、笑ったり、泣いたり、感動したり、おろおろしたりするのは私たちが心を持っているからだと思います。そして、私たちはそれぞれの心の中にたくさんの財産をたくさんの宝物をしまい込んでいるのです。

II

 誕生日にとても素敵なプレゼントをもらった経験があるでしょうか。これはうれしいです。モノが手に入ったこともうれしいのですが、本当にうれしいのはそのプレゼントをくれたその人の心がうれしいのです。その人が自分のことをおぼえていてくれた。自分のために素敵なものを探して買ってプレゼントしてくれた。そこにこめられた心がわかるからうれしいのです。それは、誰かから心をもらったという経験です。その人から思いを渡されたということです。その人の心を届けてもらったということです。こういうことは私たちの心の財産、心の宝物ととなります。私たちの心を動かし、私たちを本当に育ててくれるものです。
 もしかするとこれまでは、誰かから心をもらってばっかりだったかもしれません。親から心を配られ、家族から思いやりをもらっておこまで成長してきたかもしれません。でも、私たちが一方的にもらってばっかりというわけにはいきません。私たちも誰かに対して心を配ることができるはずです。家族や友人に対して、私たちの方から自分の心を配り、思いを渡すことができるはずです。家族や友人に対して、私たちの方から自分の心を配り、思いを渡すことができるはずです。さらに、この世界にいて困っている人、助けを求めている人、何かを成し遂げるために努力をしている人に対しても私たちは自分の心を渡すことができるはずです。頑張ってよ、と励ますことができるはずです。

III

 明日、私たちは献金を献げます。これもまた、私たちの側から誰かに心を渡すという行為です。自分より恵まれない困っている人に余っているお金をあげる行為が献金なのではありません。私たちの生きているこの世界にいる様々な人々に、自分の心を配る、思いを渡す行為が献金です。この中にはお金に困っている人がいるかもしれない。でも、それぞれが思いをこめて、心をこめて献金するとき、持っているお金は少なくなるかもしれないけれど、逆に、私たちの心の中には財産や宝物がたまっていくのだと思います。そんなにたくさんはできないかもしれない。しかし、その思いは必ず伝わります。そして、これから大きく育っていくはずです。自分にできる精一杯のことを、目には見えない誰かに対して、あるいは自分の隣にいる誰かに対して、心をこめて、思いやりを持ってしたいと願うのです。

 

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弘前学院聖愛高等学校
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