宿屋には泊まる場所がなかった

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

新約聖書 ルカによる福音書 2章6−7節

1. もしあなたなら

 わたしは1年生の授業の中、イエス誕生物語を学ぶ際に「もし、あなたがマリアだったらどうする」という質問をします。男子生徒には「もし、あなたがマリアと結婚するはずのヨセフだったらどうする」という質問になるわけです。生徒の皆さんはそれぞれ悩み考えながら答えを出していきます。もちろん産むのは良いとか産まないのは悪いとか、そんな価値判断をしたいがためやるのではありません。自分が考えてもみなかった妊娠をしてしまったら一体どうするのかということを考え、マリアやヨセフが感じた戸惑いや葛藤を想像してもらいたいと思っているからのことです。

 今年クリスマスを迎えるにあたり、わたしはイエスの母マリアと父ヨセフのことを考え続けてきました。マリアはおそらく15歳くらいでした。ちょうど高校生くらいの年齢です。ヨセフという婚約者がいて、この二人は間もなく結婚する予定でした。ところが、ある日突然天使ガブリエルが彼女のところにやって来て、「あなたは妊娠しています」と告げるのです。彼女にとっては身に覚えのないことです。そんなことあるわけがない、何かの間違いだというのが正直な気持ちだったと思います。ヨセフにとっても同じだったろうと思います。どうしてこんなことが起こるのか。どうして自分たちだったのか。そんなことを考えざるを得なかったはずです。

 けれども、二人はマリアの妊娠を受け入れて、イエスという子どもの親になることを決めていくのです。どうしてそうしたのか、本当ことはわかりません。神に選ばれて光栄だったからとか、信仰深く従順だったからとか、そんなことではないと思います。マリアとヨセフが戸惑い、迷い、悩み、葛藤しながら決めていったのだと想像します。それがおそらくとても困難な道であることはわかっていたはずです。

2. 厳しい現実にあって

 神さまはときとしてわたしたちに過酷なことを命じます。それぞれの人生において、「一体どうしてなのですか」と問いかけたくなるようなことをわたしたちは経験するのです。越えられないような高い壁を目の当たりにして途方に暮れることがあるのです。わたしたちはそんなとき「もう無理です。できません」と言ってしまいたくなります。投げ出してしまいたくなります。あきらめてしまいたくなります。「どうして」とその理由を尋ねてしまいたくなります。わたし自身の人生においてもそれはこれまで幾度となく繰り返されてきました。そして、生徒の皆さんと接する中でも思わず「どうして」と問いかけてしまうようなことが度々起こります。

 にもかかわらず、戸惑い、迷い、悩み、葛藤するしかないことがあるのがわたしたちの人生です。神さまもまた、ただ見守るだけなのです。神さまはわたしたちが直面する出来事のその理由を丁寧に説明しようとはしません。手を出して助けようとはしないのです。こっちの方へ行きなさいとか、そっちは駄目だとかいちいち指示をしてはくれないのです。だから、わたしたちは誰も助けてくれないのだと思ってしまいます。神さまなんていないのだと考えてしまいます。全てから見捨てられたと考えてしまうことすらあります。そして、自分の人生を投げ出したくなります。あきらめてしまいたくなります。

 マリアとヨセフが直面したのは望まない妊娠と出産だけではありません。人口調査のためにベツレヘムの町に着いた二人には泊まる場所がなかったというのです。夜になっても休む場所がなかった、ましてやマリアはもうすぐ子どもを出産するという身重の身です。どこかに安心して休む場所があれば、二人で泊まる場所があればと考えたことでしょう。自分たちがどうしてこんな目にあわなければならないのか、どうして誰も助けてくれないのかとヨセフは思ったことでしょう。泊まる場所がなかったせいで、家畜小屋の中で出産せざるを得なかったと言います。加えて、生まれたばかりのイエスは、ベッドもなく飼い葉桶の中に寝かされたと書いています。イエスという赤ちゃんはマリアとヨセフが「一体どうして」と問いかけたくなるようなとても厳しい現実の中で生まれてきたのです。

3. 希望と愛と

 もしマリアという一人の少女の上に起こった悲しみの上にクリスマスの喜びがあるだとすれば、それはあまりにも悲しいと思います。そして、もしヨセフという一人の男性の悲しみの上にクリスマスの喜びがあるのだすれば、それもあまりにも悲痛です。みんなの喜びのためにあなたたちは悲しんで下さいということだからです。有無を言わせずに、あなたたちはみんなのために犠牲となって下さいと命令したことだからです。もし神さまがわたしたち人間にそんな悲しみや痛みを強いるのであれば、わたしは神さまを信じられなくなります。

しかし、どうもそうではないように思います。マリアとヨセフにとってイエスを産む決心をすることは、自分たちの人生を投げ出さない、あきらめてしまわないことだったのかもしれないと思えるのです。「どうして」と尋ねることを保留して、神さまに求められたことをやってみようとしたことなのかもしれません。あるいは、自分たちで自分たちの進む道を切り開こうとしたことなのかもしれません。あきらめるのではない。投げ出すのではない。今求められていることに応えようとする姿のように思います。

 何故そうできたのかはわかりません。しかし、わたしはそのような二人の姿に希望を見出します。宿屋に泊まる場所がないとは、言い換えれば絶望的な状態だということでしょう。あきらめて当然、投げ出しても仕方ないという事柄に直面しているということでしょう。それなのに、宿屋に場所がないのであれば他の場所で、ひとつの新しい生命を産み落とそうとしたのです。過酷な運命や困難な現実と闘いながらイエスという生命をこの世に生まれさせたのです。それはまさにマリアとヨセフが生命賭けでやろうとしたことなのだと思います。

 わたしはその姿の中に希望を見出すと言いました。希望とは二人の愛のあたたかさと言ってもよいと思います。十代半ばの、そんなに大人ではないはずの二人です。しかし、その二人の間にあるものはお互いに対する深い信頼と強い愛のように思えるのです。ひとりでは越えられないような高い壁を二人で越えていこうとする。過酷な運命にあきらめてしまわない。困難な現実を力を合わせて解決していこうとする。励まし合って、支え合って、イエスの出産を成し遂げようとしたのだと思います。マリアとヨセフが、迷い、悩み、葛藤しながら得ていったものとはお互いに対する強い愛であったのではないでしょうか。

4. 愛は人を動かす

 神さまがわたしたちに求めるものも同じだと思います。隣人を、そして自分自身を心から愛するということなのだと考えます。わたしたちはなかなか自分自身を肯定できませんし、自分自身を愛せないのです。だから、他人を肯定することも愛することも難しいのかもしれません。けれども、わたしたちの人生には多くの人の愛が満ちているはずです。それに気づかないで、もっと欲しいもっと欲しいと要求ばかりをしてはいけないのだと思います。誰かから愛されることだけを望んで、自分自身や隣人を愛することをおろそかにしてはいけないのだと思います。愛とは自分の感情の押し売りではありません。その人を大切に思う気持ちであり、大事にしたいという願いです。自分自身に対してもそうなのだと思います。

 宿屋に泊まる場所がないというような絶望的な状況に立たされることがあるのはわたしたちも同じです。厳しい現実に直面させられるのはわたしたちも同じです。それを越えさせていくのは、やはり愛の力なのだと思います。ひとりではできないかもしれない。でも、わたしたちは決してひとりではない。愛されているからこそこの世に生まれ、愛されているからこそ今ここにおり、愛されているからこそこれからも生きていくのです。

 クリスマスと呼ばれる日にベツレヘムの家畜小屋に誕生した一人の子どもはマリアとヨセフのお互いに対する深い愛の中に生まれてきたのだと想像します。そして、彼が成長してから語り行ったことも愛という一言に尽きます。彼は愛が人を動かすものであると知っていたはずです。人を良い方向へ導くものであること、希望であることを信じていたはずです。だからこそ彼は愛が人の生命を救い出すものであることを伝えたのだと思います。そして、生涯を賭けてそれを行っていったのです。十字架の上で殺されるまでです。

 たとえ、わたしたちが今どんな状況に立たされていようともクリスマスはやって来ます。喜びの中ではなくても、悲しみの中にあるとしてもです。神さまはイエス・キリストをこの世に遣わすのです。愛ある世界の実現のためにです。愛ある平和な世界の実現のためにです。今このとき、わたしたちはもう一度その意味の深さを考えたいと思います。そして、わたしたち自身もあきらめないで投げ出さないで、愛あるお互いの関係のために、愛ある世界の実現のために祈り行動していきたいと願います。



弘前学院聖愛高等学校
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