聖書の言葉

長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。
「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」

日本聖書協会 新共同訳 新約聖書 ルカによる福音書7章4節

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皆さんは将来どのような大人になりたいですか。もし、そう問われたら、何と答えるでしょうか。「普通に暮らせれば良い」と答える人が多いように思います。何らかの仕事について働いて、結婚して新しい家族を作り、子どもを生み育て、そしてやがて年を取り老後を迎える。おそらく、そのようなイメージであろうかと想像します。わたしも皆さんの年代の頃はそのように考えてました。その頃の夢は教師になることだったので、今のわたしはその夢を叶えたことになります。しかし、わたしの想像した未来と違っていたことがあります。一人暮らしだということです。18歳で山形の実家を離れて以来、京都、旭川、弘前と住む場所は変わりましたが、ずっと一人暮らしです。30年になります。もう誰かと一緒に暮らしている自分を思い描くことよりも、一人暮らしの気楽さに慣れてしまいすっかり「独身貴族」を楽しんでいます。これからも、こうやってわたしは年を重ねていくのだろうと考えています。

自立するということは、他人に頼らずに生きることです。収入を自分で得て、自分の生活を成り立たせることを言います。その意味では、わたしは自立しています。年齢も体型もそれなりになったので、充分大人になりました。でも、年齢を重ねれば大人になれるのでしょうか。自立できるのでしょうか。そうではないだろうと思います。大人になるということは、ただ単に年齢を積み重ねればなれるものでもないように思います。現に、ずっと一人暮らしで年齢を重ねたわたしは、時折自分が同じ年齢の人より幼い部分があることを自覚しています。大人と呼ばれるにはふさわしくない部分があることに気づくことがあります。皆さんに「先生、若いね」などと言われて、喜んでいる場合ではないことがあるということです。大人に、その年齢にふさわしい落ち着きや雰囲気も必要なことがあります。最近は、自然に年をとっていければいいなと思っています。

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先程中村先生に読んでいただきましたが、今日皆さんと一緒に考えてみたい聖書の物語には百人隊長という人が出てきます。簡単に説明すると、イエスがある百人隊長の部下をいやしたというお話です。イエス当時のユダヤ(今から2000年前です)はローマ帝国に支配されておりました。ローマ帝国の軍隊がユダヤに駐留していたわけです。ローマ軍は十人隊が10個集まって百人隊、百人隊が10個集まると千人隊というシステムでした。ですから、隊員を百人を率いていたのが百人隊長です。人を動かす立場にある人です。

ある百人隊長の部下が病気で死にかかっていたというところから物語ははじまります。イエスのうわさを聞きつけたこの百人隊長が、イエスに自分の部下を助けてくれるように願うのです。けれども、この箇所において、百人隊長はイエスのところにユダヤ人の長老を使いにやったと書いてあります。自分でイエスのところに来て「部下が病気で死にそうなので助けて下さい」と願ったわけではないのです。そして、長老たちはイエスに熱心に「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と百人隊長を評価しているのです。おそらく、この百人隊長は自分の部下を助けたいと願う愛情と思いやりに満ちた人物なのでしょう。だから、ユダヤ人の長老たちが「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と語ったのでしょう。彼は、ローマ人でありながらもユダヤ人からも信頼される人、ユダヤ人からの評判が良い人として描かれているわけです。

けれども、一方で百人隊長の自己評価はそんなに高くないのです。イエスに対して、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と話しているのです。他者からは「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と言われるのに、自分では「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っているのです。わたしは、このギャップに少しひっかかります。百人隊長の単なる謙遜なのでしょうか。異邦人である自分をへりくだらせているのでしょうか。この百人隊長は偉ぶらない本当に良い人だったのでしょうか。もしかすると、そうなのかもしれません。

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そうであるならば、この百人隊長の姿勢から思わせられることがあります。ここ何年間かわたしがずっと気になっているのは、生徒の皆さんにおける「何とかなる」「大丈夫」の蔓延です。わたしは、その根底にあるのが「根拠のない自信」のように思います。たとえば、テスト勉強を全くしないでテストを受けたらどうなるか。誰でも想像がつきます。ひどいことになるでしょう。でも、根拠なく「何とかなる」「大丈夫」と思いこもうとしてしまう。で、実際にはできるはずの努力をほとんどしない。怒られて、はじめてまずいかなと思い始める。実際にこれまでは何とかなってきた人も多いかもしれません。でも、高校時代までです。これからは、何ともならないことになり、責任をとることになります。みんながやっているから自分もやって良いという考え方も、時と場合と状況によります。難しい言葉で言えば、自分の権利ばかりを主張しやるべき義務を果たさないのであれば、大人としては認められません。「何とかなる」と「大丈夫」の大安売り生活では、やがて「何ともならず」で「大丈夫ではない」ことになってしまうことにもなるのです。

けれども、その逆に、本当に充実した高校生活を送った人たちがいることも、わたしは知っています。できる限りの努力をし、たくさんの時間を使い、何かを我慢しつつも自らの成長に努めた人たちです。勉強でも、部活動でも、進路達成でもそのように一生懸命になった人たちがいます。頑張った人たちがいます。目標が叶えられずに悔し涙を流した人もいるでしょう。しかしながら、そのような高校生活を送ったということは、「根拠のない自信」に裏づけされた薄っぺらい「何とかなる」「大丈夫」の大安売り生活とは全く価値が違っています。頑張ることは、本当の自信につながります。経験に裏づけられた自信です。一度頑張れた人は、また次のときにも頑張ることができるでしょう。でも、一度逃げることをおぼえた人は、また次のときもどうやって逃げるかを考えてしまうことでしょう。誰だって辛いことは嫌です。誰だってなるべくラクな方が良いと思うはずです。が、人生はそんなに甘くはないので、ここぞという頑張りどころが来たときには、たとえそれが辛くても何とかしてそれを乗り越えなければなりません。「何とかなる」ではなく「何とかする」のです。たとえ結果がどうであろうとも、自分自身の持っている力を出し惜しみすることなく尽くすことがわたしたちには求められることがあるのです。そして、そのような力を尽くせる人、尽くそうとする人を大人と呼ぶのではないかとわたしは思うのです。

百人隊長はそのような人物だったのではないかと想像します。自分の部下を思いやり、偉ぶらず、人々の信頼が篤い本当に良い人です。まわりの人たちに「この人のためだったらできることをしよう」と思わせる人です。皆さんもそうですよね。親友のためだったら、一肌脱ごうというようなことはありますよね。困っていたら助けようとするだろうし、落ちこんでいたら励まそうとするでしょう。あるいは、この人の言うことだから聞こうというのもあるでしょう。「アイツは信じられない」となれば、秘密や重要なことは話したりしないでしょう。信頼があれば、お互いの関係は深まります。逆に信頼がなければ、お互いの関係は決して深まることはないのです。根拠のない自信に裏づけられた、うわべだけの「何とかなる」と「大丈夫」を言い合う関係にとどまってしまうのです。自分も相手も成長できない、残念な人間関係しか築けないことになってしまうのです。

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もう一つわたしはこの物語から考えさせられることがあります。それは百人隊長がイエスに「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と語っているところです。福音書にある多くのいやしの物語は、イエスがその人に触れていやされたというお話が多いように思います。百人隊長はイエスの語る言葉によって自分の部下をいやしてもらいたいと願っているのです。イエスは百人隊長の言葉に感心して「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とほめているのです。そして、病気の部下はいやされて元気になるのです。

傷の「手当て」という言葉に表されているように、傷に手を当ててその痛みをいやすことが、患者に手を触れることが治療することの最も古い形であると言われます。イエスの時代のように医療技術が進んでいなかった古代社会では、病気とは悪霊が取りついているのだと思われていました。触ると自分にも悪霊が乗り移るかもしれないと考えられていた時代に、イエスは病気の人に手を触れいやすということを行っていた。これは画期的なことだと思います。しかし、この物語ではそうではない。イエスの言葉によって病人がいやされるのです。

わたしは、昨年の5月に父を亡くしました。このことに関しては、皆さんにも同僚の先生方にも本当に様々な面でお気遣いいただいたと思っています。大変辛い経験でした。加えて、8月に祖母を亡くしました。短い間に二つの死と葬儀を経験することは大変なことでした。しかし、今まで少し疎遠だった弟と協力して細々としためんどくさいことをやり遂げられたことは得難い経験だったと思っています。わたしはこのことを通して、自分は少し大人になったのだと感じております。そして、おそらく弟も同じだろうと思うのです。たくさんの方々の励ましとお祈りに支えられていた自分を思い出します。そして、その方々の言葉の中に、祈りの中に、かけがえのない貴いものを見るのです。神が、イエスが共にいてくれたことを感じ取るのです。

それこそが、イエスの語った信仰というものではないかとわたしは考えるのです。人が人を思いやり、励まし、支える。その中に神の働きがあるのだということです。もっと言えば、わたしたちは人と人との関係の中にあってこそ神の愛を感じ取るのです。この話で言うなら、百人隊長が自分の部下の病気を何とかしたいと思うその心にこそ、神の愛が宿っているのではないでしょうか。そして、イエスはそのような心に寄りそうのではないでしょうか。そのような心に対して応えるのではないでしょうか。百人隊長の部下を思う心ある言葉がイエスの心を感心させ動かしたのだと思うのです。「何とかなる」「大丈夫」というような口先だけの言葉には絶対に持ち得ない力ある本当の言葉だからです。

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最後に、以前ある生徒が書いた一つの文章を紹介します。高校3年生の3学期の課題(皆さんも提出しましたね)の中にあったものです。こうあります。《倒れている人を目の前にすると、どうして良いのか動けなくなってたけど、学んでから雪に埋もれているおばあちゃんを助けることもできましたよ。少し無理をしてでも勇気を出してみる。この言葉を思い出して頑張りました。(中略)これまで学んだことをぜったい忘れず、春から社会人の一員として頑張っていきます。》わたしはこの卒業生が今何をしているか知りません。決して真面目で聞き分けのある生徒ではありませんでした。むしろ手がかかった方だと記憶しています。けれども、聖愛で学ぶとはこういうことだろうと思うのです。こうあって欲しいと思うのです。通りがかった道で、雪に埋もれていたおばあちゃんがいたら、自分のその手をおばあちゃんに差し出す人になるということです。これまで学んだことが皆さんの心の中にあり、自分自身の行動を決めていけるということです。良いことと悪いことをきちんと判断していけること。そして、自分の行動を良い方へと向けていけるということ。自分のできることは惜しまずやる人になるということ。そういうことが聖愛で学ぶことの大きな意味です。さらに、これからの人生においても聖愛で学んだことがそれぞれの心に残り続けていて欲しいのです。それが皆さんに対してわたしたち教師が願っていることです。

推薦入試で合格し進学する皆さんは推薦書を書いてもらったはずです。「貴学への進学が、当人のさらなる成長につながり、可能性を広げることになると確信して推薦いたします」とわたしも何度か書いています。6年前、あるいは3年前、聖愛と出会ったあなたは、神に選ばれてこの学校へと入学してきたはずです。これからの人生も神に愛され、その愛を受けて、人と人との丁寧な関係を築ける人間として進んでいって下さい。どうか良い大人になって下さい。自分自身のできることを惜しまずやって下さい。どこに行こうとも、何をしようとも、それぞれが聖愛の卒業生としてふさわしい人間として勇気を持って歩んで下さい。

(2月27日 高校卒業礼拝)