宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを喜ばれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人

日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書 詩編147編10-11節

 

アドベントも3週目に入りました。来週の終末がクリスマス礼拝です。イエス・キリストの誕生、クリスマスを迎える準備がなされいています。この礼拝堂もですが、校内各所でクリスマスの飾りつけがなされ、いつもより華やかな雰囲気をつくっています。皆さんにとってクリスマスとはどのような意味を持っているでしょうか。クリスマスという日があることは誰でも知っていますね。ケーキを食べたり、チキンを食べたり、プレゼントをもらったりする人もいるでしょう。家にもクリスマスツリーが飾られていたり、イルミネーションが光っていたりするのかもしれません。

でも、楽しいだけで良いのだろうかと思います。クリスマスにイエス・キリストが忘れ去られていたらクリスマスではないだろうと思うのです。そして、イエスがこの世界に2000年前に生まれてきたことの意味を考え思い巡らすのがアドベントの過ごし方だろうと思うのです。何故わたしたちは毎年毎年クリスマスをお祝いし、そのための準備を心をこめてやるのか一人一人考えて欲しいということです。

わたしが考えている一つが、クリスマスとは誰かから優しくしてもらうためにあるのではないということです。誰かから優しくされるのではなく、わたしたちが誰かに優しくするためにあるのではないかと思うのです。というのは、この世界に生まれてきたイエスの生き方がそうであったからです。福音書に描かれているイエスは、困っている人や辛い人、困難や悲しみに直面している人に対して優しくあろうとしました。ご自分の力をそのために尽くしました。わたしたちも、そのようなイエスの姿にならいたいと思うのです。

今日の聖書に「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを喜ばれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」とありました。わたしたちはそれぞれ何か特別な能力があるわけではありません。他人に注目されるような存在でもありません。しかし、自分の今いる場所で精一杯のできることをしようとする人になりたいと思います。今いる場所で、今年クリスマスを迎えるにあたり、精一杯の優しさを誰かに配る人になりたいと思います。わたし自身も、皆さんもそうできたらと願います。(12月15日)