聖書の言葉

しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

日本聖書協会 新共同訳 新約聖書 マルコによる福音書6章50節

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わたしたちが日常的によく用いる言葉の一つに大丈夫という言葉があります。辞書的な意味だと、「しっかりしていて危なげのないさま。間違いなく確かなさま」ということになるようです。普段わたしたちはもっと気軽な気持ちで用いますね。「大丈夫?」と尋ねて、「大丈夫」と答えるような、そんな使い方です。皆さんは、本当は辛くて大変なときに「大丈夫?」と尋ねられたらどう答えますか。「大丈夫?」と尋ねられて、「大丈夫じゃない」とはなかなか答えにくいですよね。だから、本当は大丈夫じゃないんだけど、「大丈夫」と答えてしまうことがあるのではないでしょうか。正直とっても辛い。だからその辛さをわかって欲しい。少し話を聞いて欲しい。大丈夫どころか今はピンチだ。そういうことがしばしば起こるのがわたしたちの人生なのだと思うのです。これは皆さんの短い人生でもそうだったでしょうし、皆さんの倍以上の人生を送ってきたわたしも実感としてそうなのです。

今日太田先生に読んでいただいた聖書の箇所を考えるとき、わたしはイエスの弟子たちがイエスに従っていこうとする過程を見て取ることができると考えているのです。すなわち、今現在弟子たちはイエスという人物に従っていて大丈夫なんだろうかと考えている。でも、この今日読んだ2つの奇跡物語を通して、次第にイエスに従っていくことが大丈夫だと思えていく。そのような過程が示されているのではないかと考えるのです。

今日の聖書の箇所は2つの奇跡物語が記されています。すなわち、「五千人の給食」と呼ばれる物語と「湖を歩く」という物語です。どちらもイエスが行った奇跡です。パン5つと魚2匹で五千人の人が食べて満腹したお話が1つ目です。そして、弟子たちが舟で湖を渡っているときに、イエスが弟子たちのところまで湖の上を歩いて渡ってきたというのが2つ目です。わたしたちの理解からすれば、どちらもできるはずのないお話です。絶対無理でしょうというお話です。でも、この福音書の著者のマルコはこの2つの物語を自らの福音書に書き記しています。マルコは、4つの福音書のうち、一番最初に福音書を書いた人です。そして、イエスの言葉や行いを福音という言葉で呼びました。イエスがどんな人だったのか、どんな生涯を送ったのかということに注目し過ぎるのではなく、イエスは自分たちに良い知らせ(福音)を告げ知らせてくれたのだ。そのことを後の時代の多くの人々に伝えるのだという思いで書き記されたのがマルコによる福音書です。そう考えると、この奇跡物語の中、戸惑いながらもイエスに従っていく弟子たちの姿の中にマルコは自分を重ねているのではないかと思うのです。

どう考えてみても、五千人の人に食べ物を与えるのは無理なことです。大丈夫じゃない状態のはずです。こんなにたくさんの人々がいるのに、人里離れたところで、食べ物がない。だから、弟子たちは一度集まっている群衆を解散させて自分たちで食料の調達をさせようとします。しかし、イエスは弟子たちに「あなたがたが食べ物を与えなさい」と命じます。それも、買ってくるのではなくて今あるもので何とかしなさいと命じるのです。そしたら、パン5つと魚が2匹あった。それをみんなで分け合って食べたらすべての人が満腹したというのです。そんなことはできるわけがないと皆さんは思うでしょう。わたしも思います。けれども、わたしはここで考えさせられるのです。「無理だ」「できない」と言ってしまった方がラクなんだということをです。そして、「無理だ」「できない」ということからスタートしたら何もはじまらないのだということをです。もっと言えば、「無理だ」「できない」は自分を守るための言い訳であるということもです。

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わたし自身のことを少しお話します。わたしは今現在教師であり牧師としての仕事をこの学校で続けております。牧師になって20年余りたちます。この仕事につくきっかけが何だったのか、今でもよくわかりません。ただ言えるのは、わたしがキリスト教と出会うまでは決して前向きな生き方はしていなかったということです。どちらかと言えば後ろ向きで、更に色々なことを斜めに見るような考え方ばかりしていたように思います。生意気でした。そして、自己肯定感の薄い、自信のない子どもでした。だから、その頃のわたしが、この五千人の給食の物語を読んでも、「無理だ」「できない」と、あるいは「嘘でしょ」「作り話でしょ」と考えたことでしょう。わたしは、何か劇的なことがあってキリスト教を信じたわけでも、崇高なる使命感を持って牧師になろうと思ったわけでもありません。ただ、たとえどんな困難なことに出会ったとしても、神さまはわたしを支えてくれると信じられたことがわたしの進歩です。相変わらず後ろ向きな部分はあります。自信のないところもあります。が、今はあるがままの自分で自分を肯定できるようになった気がしています。年齢も取ったせいかもしれません。「無理だ」「できない」とすぐに口にするのではなく、どんなことでも「やってみよう」と思えたこと、そして生徒の皆さんに「まずはやってごらん」と言えるようになったことはわたし自身の大きな成長なのだと考えています。

「無理だ」「できない」と考えた弟子たちに、イエスはパン5個と魚2匹でやってごらんと言うのです。「あなたがたが食べ物を与えなさい」と命じるのです。イエスはあなたたちの持っているもので何とかしようと言うのです。これしかないからできないとか、そう考えないでまずはやってみなさい、いや一緒にやってみようと言うのです。そして、弟子たちはパン5つと魚2匹で何とかしようとするのです。そのときの弟子たちを動かしたものは一体何でしょうか。何が弟子たちを行動に移させたのでしょうか。わたしは、イエスを信じてみようというそのような思いなのではないかと思います。イエスは、自分たちには到底「無理だ」「できない」と思うようなことを一緒にやろうと言っている。弟子たちは信じてみるか、かけてみるか、やってみるかと、決心したのではないでしょうか。弟子たち一人一人を思い切らせたのがこのときのイエスだったとわたしは想像しています。

わたしたちも同じです。何かの思いを持ち、その思いに動かされることがあるのではないでしょうか。自らの目標を掲げ、その目標をかなえようと努力すること。部活動でも、進路の決定でもそのために必死になった人たちがいます。わたしは様々な場面でそのような皆さんの姿を目にしてきました。自らの思いがなければ行動することはできません。努力することもできません。そして、行動することなしに何かを得ることはできません。目標がかなえられず悔し涙を流した人もたくさんいます。自分の力の限界を知ることは辛いことです。でも、自ら目標をたて、それをかなえようという思いに動かされ行動する。それはかけがえなく貴い大切な時間だったとわたしは思うのです。大丈夫ではないことがわかっているのに、それでもその場に立ち向かう。その勇気。わたしはその勇気は、それぞれが心に抱く思いによって生まれたものだと思っています。思いがなれけば行動できません。「無理だ」「できない」とそのままの場所でたたずんでしまうことでしょう。たとえ結果が思うようにはならなかったとしても、自分自身が心に抱く思いに従って何かをなそうとしたことは皆さん自身が誇りに思ってよいことだと考えています。

二つ目の、イエスが湖を歩いて舟までやって来たという奇跡物語についても同じです。湖の真ん中で舟が先に進まないというのはピンチです。弟子たちは途方に暮れたはずです。どうしてこうなるのとか、もっと一生懸命漕がないととか考えたでことでしょう。イエスに従うことを心に決めて、舟で漕ぎ出したのに、行きたいところに行けないのです。逆風に阻まれて前に進まないのです。辛いですし、苦しいです。加えて、舟が転覆して大変なことになる可能性すらあります。泳げない人にとってはピンチです。たとえ泳げたとしても、荒れる波の中で助けも期待できない中で水面に浮いていることは生命の危機です。大丈夫ではない状態です。わたしはスキューバダイビングが趣味の一つでもう20年来やっていますが、波のある中で海面に浮いているということは本当に辛いことです。体力的な消耗もあるのですが、精神的な消耗がじわじわと押し寄せてきます。すごく不安になります。このままわたしたちを回収しに来てくれなければ助からないこともあるんだなあと考えたりします。大丈夫なんだろうかと考えます。そして、今ここにわたしがいるということは、そのことが大事にならなかったからのことです。一歩間違っていれば、ということはあまり想像したくありません。

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イエスは、逆風の中進めないで困っている、そのような弟子たちのところに現れます。そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。一緒にいるからもう大丈夫だと言うのです。この出来事から、わたしは信じるということを考えさせられます。信じるとは「わたしを信じなさい」と命令してできることではないのです。わたしがこの人を信じるとは、この人を信じて大丈夫だという思いから生まれます。何か条件をつけて、この部分だけは信じるけど、あとの部分は信じられないとかいうことは本当に信じたことにはならないのだと思います。この人なら大丈夫という思いがある。そして、はじめてその人を信頼するのです。「大丈夫?」という問いが本当に「大丈夫」になるのです。そのようなお互いの関係がなれけば、信じることにはならないのです。

キリスト教の神とわたしたち人間との関係は、お互いに信じ合える関係です。「神はいる」ということをどれだけ一生懸命言葉で説明しようとしても無意味です。それよりは、わたしが神を信じていて、神がわたしを守り支えてくれているということを感じ取ることが大切なのだとわたしは考えています。何か劇的な出来事の中に神さまの働きがあるのではないのです。何気ない日常の何気ない誰かの一言の言葉に安心させられてその中に神の働きを感じることもあるのだと思います。そして、神はわたしたちの未来に期待してくれているので、もし失敗したとしてもやり直すことをゆるしてくれます。

それは、お互いに本当に大丈夫と言い合える関係です。安心できる関係です。そのためには、まずわたしたちが隣人と信じ合える関係をつくり出すことが神から求められているように思います。そして、神はわたしたち人間同士が大丈夫だと言えるようにわたしたちを結び合わせて下さるのです。神はわたしたちを支えるのです。わたしたちを導くのです。わたしたちを守るのです。が、神がわたしたちを見守ってくれるということは決して、辛いことや苦しいことが人生において起こられないということではありません。薔薇色の未来が約束されているわけでもありません。他者との関係の中で傷ついたり疲れたりすることもあるでしょう。将来に対する不安もあるでしょうし、これからどうなるんだろうという恐れもあるでしょう。大丈夫ではないと感じるようなこともたくさん起こるでしょう。神を信じたからといって、あるいは神以外の何かを信じたからといって、困難を回避できるわけでもないし壁にぶち当たらないわけでもないのです。

けれども、たとえどのような人生を送っていくにせよ、信頼すべき存在があるということは心強いことです。そして、自分を信じてくれる人がいるということも勇気を与えてくれることです。人は期待され信頼され、そのことを嬉しいと思えて自信をつけていくのだと思います。そして、そこを出発点として更に人に期待し信頼し合えるお互いの関係を築いていくのだと思います。大丈夫と思える関係を、安心を与え合える関係を時間をかけゆっくりと築いていくのだと思います。イエスと弟子たちも様々な出来事を経て、そのような関係を築いていったのでしょうし、その一端が今日読んだ箇所に示されているのだと考えています。

皆さんの高校生活は間もなく終わりを告げます。終わりははじまりです。そして、これからの人生の方がずっと長いのです。皆さんは3年前あるいは6年前の4月、神に選ばれてこの学校に入学してきました。そして、今この学校から旅立っていきます。この学校は皆さんに様々なことを考えるヒントを与えました。これからはそのヒントを基にして、皆さん自身が考えを深め、更に大きく成長していく時間です。イエスは弟子たちに「安心しなさい」と語りかけてくれます。わたしたちにも同じように「安心しなさい」と「大丈夫だよ」と語りかけて下さることをわたしは信じています。大丈夫ではないときには、自分が信頼できる人に相談して下さい。あるいは、聖書をめくって励ましてくれる言葉を探したり、讃美歌を歌って元気をもらったりして下さい。神さまはあなたのこれからの人生をも守り導くはずです。そのことを信じて、勇気を持って出発して下さい。

(2月26日 高校卒業礼拝)