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わたしたちの後を歩む神

宗教主任  石垣雅子

〜聖書の言葉〜

イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して彼らの後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。

旧約聖書 出エジプト記 14章19−20節

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 わたしたちが生きている今日の世の中は「早さ比べ」の世の中です。子どもたちが親から言われる言葉のベスト・スリーに入るのが「早く」という言葉だそうです。「早く起きなさい」「早くご飯を食べなさい」「早く学校に行きなさい」、今朝そう言われた人もいるのではないでしょうか。何事においても「早く」できることが良いことであり、遅いのは駄目なことだと思いこんで生きています。だから、少しでも「早く」何かができるようになろうと努力しているわけです。もちろん、短時間でなるべくスピーディに効率良くこなすことは大事なことです。同じことに1時間かけるのと30分で終わらすのとなら、やはり30分でできた方がずっと良いに決まっています。
 でも、わたしは少し考えこんでしまうことがあります。何でもかんでも、全てのことが「早く」できるのが良いことであり、遅いのは駄目なことなんだという強迫観念がわたしたちの中にしっかりとあって、それに支配され過ぎてしまってはいないかということです。もっと言えば、忙しくあわただしい時間を過ごすことが良いことで、のんびりするのは良くないことだと思いこまされているのではないかということです。わたしは新幹線という乗り物があまり好きではないのですが、今、八戸から東京まで3時間ちょっとでしょうか。一昔前までとは比べものにならない程短時間で移動できます。それでも、まだあの新幹線という乗り物はスピードを追求しているようです。一体どれだけ「早く」なったらもうこれで十分ということになるのでしょうか。
 「早く」移動するために新幹線に乗る。「早く」情報をつかむためにパソコンを使い、携帯電話を使う。色々なことが「早く」はなったけれど、かえって生活にゆとりや余裕がなくなったようにも感じています。全てのことをせきたてられているようで、それについていけなくなったらお終いとばかりに頑張ってしまっているのがわたしたちの姿なのかもしれません。

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 今日読んだ聖書は出エジプト記という書物の一部分です。ここに描かれているのはエジプト軍から逃げるイスラエルの人々です。せっかく奴隷の生活から解放されると思ったのもつかの間、もうここで捕まって皆殺しにされるというような場面です。エジプト軍が逃げるイスラエルの人々を追いかけています。歩いて移動しているイスラエルの人々を、エジプト軍は馬や戦車(この時代の戦車は馬やロバが引いていたものですが)で追いかけているわけです。捕まるのは時間の問題です。
 それなのに、エジプト軍はいつまでたっても追いつくことができなかったと聖書は記しているのです。一体どうしてなのでしょうか。それは、イスラエルの人々を導いていた神の御使いが移動して、人々の一番後ろについたからなのだというのです。そのためにエジプト軍はいつまでたってもイスラエルの人々に追いつくことができなかったというのです。エジプト軍は最後にはこう言っています。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。(25節)」と。追うのをあきらめさせてしまうのです。
 ここに描かれているのは、人々の後ろを歩んでいる神の姿です。そこより後ろにはもう誰もいないというところを神が歩いているというのです。人々の後ろに立って、まるで背中をそっと支えてくれるかのごとくにです。一番後ろをゆっくりと進んでおられる神の姿が語られているわけです。
 「早く」「早く」とそういう強迫観念の中で疲れてしまっているわたしたちに今一番必要なのはそういう神さまなのではないかとわたしは思っています。みんなに追い抜かれ、もうどうしようもないよ、疲れたよ、万事休すだよ、というようなそんなときでもわたしたちの後ろを神さまが歩いて下さっている。歩みの遅いわたしたちであったとしても、それでもなお、後ろを神さまが歩いて下さっている。たとえ、ゆっくりとしか歩けないそんなときでも、余裕のない苦しいときにもです。たとえどんなわたしたちであっても、神さまはわたしたちを支えて下さろうとしているのです。そのことを心に留め、自分のペースでそれぞれ今日という一日を、そしてそれぞれの人生という道程を歩いていきたいと願います。

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弘前学院聖愛高等学校
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