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喜び、祈り、感謝する

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙T 5章16−18節

I

 先日3年生の授業で「人間とは何か」ということを考えてもらいました。「人間とはナントカである」のナントカのところに自分の考えるものを入れなさいというのをやってみたわけです。こういう質問をするには時間が必要です。少し時間をとってノートに書かせてやってみました。すると、なかなかおもしろい答えが返ってきたわけです。ある生徒は「人間とは生物である」といいました。またある生徒は「人間とは考える能力を持つ生き物である」といいました。「人間とは現在のところ世界を支配している存在である」というのもありました。なかなか鋭いです。この手のもので一番有名なのはパスカルという人が言った「人間は考える葦である」というものだろうと思います。「人間とは何か」という問いは古来から何度も何度も繰り返されてきたものですし、本当に色々な答えがあるのだと思います。
 そんなに難しく考えないとしても「人間て一体何なのだろう」とか「人間は何故生きているのだろう」と考えこんでしまうようなことは誰にでもあるのだと思います。わたし自身もやはりそうでした。特につらいことや困難な出来事に直面するとき、何度もこのことを考え続けてきたように思うのです。思い通りにならない自分、やることなすこと失敗してしまう現実を抱えてしまうとき、「どうして」「何故」と問いかけてしまうのです。
 しかし、思い通りにならないことややることなすことがうまくいかないからといって人生がそこでお終いになってしまうのでしょうか。そうではありません。お先真っ暗だとかもう駄目だとか、そうなってしまうわけではないのです。

II

 わたしたちは思い通りにならないことやうまくいかない現実に出会うとき、そのことに対して文句を言いたくなります。不平や不満を口にして、ぐちぐちとだらだらとしてしまうのです。自分のことを責めてみたり、「どうせ自分なんて」とすねてみたり、あるいはまわりにいる人のことを非難したりしてしまいがちなのです。けれども、時間はとまることなく流れています。そして、わたしたちも同じところにとどまって不平や不満ばかりを口にしているわけにもいかないのです。
 先程読みました聖書には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とありました。わたしたちの日常の生活は喜ぶこと、祈ること、感謝することの少ない現実にあるのかもしれません。少なくとも、わたし自身はそうです。けれども、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と聖書はわたしたちに語りかけています。人間とは喜び、祈り、感謝することのできる存在なのだとわたしたちに教え示してくれているのです。たとえ今どのような状況にわたしたちがおかれているとしても、今日のこの言葉を胸に刻んでいたいと思います。わたしたちそれぞれ喜び、祈り、感謝する生活を目指して歩みを進めていきたいと願います。

 

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弘前学院聖愛高等学校
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