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とりかえしがつかなくなる前に

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

新約聖書 ルカによる福音書6章27−28節

I

 1月の末のことでした。わたしは友人からの電話でひとりの方がなくなったことを知りました。その方はわたしが弘前に来る前にいた旭川の教会の教会員で、個人的にも親しくしていた方でした。ガンが発見され、あっという間に進行し、この世から去っていってしまったのです。まだまだ働き盛りでした。決して亡くなるような年齢ではなかったのす。その知らせを聞いたとき、わたしは「まさか」と思いました。何かの間違いだろうと思いました。彼は、4人の子どもの父親として、つれあいを愛し支える男として、また福祉の仕事をする存在として生きているはずの人でした。彼は彼のいるべき場所にいるはずの人でした。そんな彼が死んでしまうわけはない。だから「まさか」と思ったのです。そして、「まさか」の次に湧いてきた感情は「もう、とりかえしがつかないのだ」ということでした。わたしがもし彼に会いたいと思っても、もう会うことはできない。話をしたいと思っても話をすることはできない。亡くなる前にお見舞いに行けば良かったとか、どうしてお訪ねしなかったのだろうという後悔と共に「もう、とりかえしがつかない」と思ったのです。そのことがとても悔しかったのです。
 「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と考えてしまうようなことはわたしたちにときとして降りかかってきます。その人の死もわたしにとってそのような出来事でした。「何故、彼でなければならなかったのか」ということをわたしはずっと考え続けています。たまたま貧乏くじを引いてしまったのだろうかとか、神さまの気まぐれなのだろうかとも考えてしまいます。その答えはどこにもありません。ただ、ひとつわかるのは彼はもはやこの世には存在し得ず、この世の生命を終えて神さまのところへ行ってしまったということだけです。神さまのところへ行ってしまう前にもっとあれこれ話をしたりしたかったのに、と思うと悔しい気持ちになります。この世に残された子どもたちや彼のおつれあいのことを考えるとやりきれない気持ちになります。そして、それ以上に、おそらく彼自身まだまだやり残したことや無念なことやがたくさんあっただろうにと思うと涙が出そうになります。
 しかし、そういうわたしたち人間の気持ちや感情には関わりなく、神さまはわたしたちに過酷なことを命じます。「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と考えてしまうようなことを人生において一度も経験しない人はいないだろうと思うのです。思いや希望があるのにも関わらず、それを成し遂げることができない。こういう道に進みたいのに進むことができないとかそういうことです。あるいは、自分の予期しないような方向に物事がどんどん進んでいってしまう。そんなつもりはなかったのにどうしてそうなってしまうのかと考えるようなことです。
 昔の人々は、そのことを「運命」と呼びました。あるいは「因果応報」だと説明しようとしました。「運命」も「因果応報」も基本的な考え方は一緒だと思います。原因があるから結果がある。悪いことをしたから悪い報いがあり、良いことをしたら良い報いがある。だから、起こったことは仕方ないことなのだ。それを受け入れるしか方法はない。自分自身では意識していなくても、悪いことをしたからそんなことが起こったのだ。あきらめずに努力し精進していればやがては良い報いが来ることだろうと考えたのです。

II

 けれども、そのような論理に対して「それは違う」と言い放ち、「運命」や「因果応報」を打ち破ろうとした存在がいました。今からおよそ2000年前世界の片隅のユダヤというところで30数年と思われる短い生涯を送った人です。ガリラヤのナザレという町の出身とされ、その名前をイエスと言いました。彼こそ新約聖書に描かれているイエスであり、後世の人々は彼のことをキリスト(救い主)であったと言いました。イエス・キリストとは「イエスこそキリストである」という意味であり、イエスのことをキリストだと信じた人々がキリスト教をつくり出した人々なのです。
 彼、イエスは当時のユダヤ社会において、当然とされていたことに対して疑問を投げかけました。おそらくはそのやり方は当時の人々にとって過激とも受け取れるものであったのでしょう。その過激さ故に、イエスは最後には十字架につけられて死刑に処せられます。過激な言葉や行動に危険を感じた権力者たちの手によってイエスは無残に殺されていったのです。当時の世の中で当たり前とされていたこと、当然のことだと考えられていたことに対して、イエスはそれが本当に正しいことかどうか問うていったのです。「運命」や「因果応報」という事柄についてもそうでした。
 例えば、当時の社会において、病気の人や障がいを負った人は「自分かあるいはその先祖が悪いことをした報いなのだ。だから今の状態は引き受けなければならない運命なのだ」と考えられていました。そして、差別されたり疎外されたりしたのです。律法という当時のユダヤ社会において絶対の価値基準の範囲からはずれた存在として、汚れた存在として生きざるを得なかったのです。罪人、羊飼い、徴税人、異邦人、娼婦といった人々もまたそうでした。これらの人々は、当時の社会で差別され疎外され、軽蔑のまなざしで見られた存在です。けれども、聖書によればイエスはこれらの人々の友であったと、イエスはこれらの人々に近づき親しい関係を築いていったと記してあるのです。イエスは「どうしてこんなことが起こるのか」「どうしてこんな目にあわなければならないのか」と問いかけたくなる人々に、「それはあなたが悪いせいだ」と言わなくてもいい論理を示していったのです。「それは運命だから仕方ない。あきらめなさい」と言わなくてもいい論理を示していったのです。
 そのようなイエスは、わたしたちにその論理のもっと先にあるものを示そうとしています。今日読んだ聖書の箇所には、自分の敵と思える存在をも愛しなさいとあるのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」というのです。されたら嫌なことをされたとしても相手に同じようにするのではなく、かえって相手の思う通りにしなさいというのです。仕返ししてはいけないと教えるのです。殴られたら殴り返さずに殴られるままにしなさいというのです。持っているものを盗まれたら盗まれたままにしなさいというのです。もっと極端なことを言えば、自分の親しい人が殺されたとしたら、殺した人のことを憎んだりせずにゆるし愛してやりなさいということです。ここでイエスは、とてもとても実行することが難しい、そんなことは絶対に無理だというようなことを語っているのです。そんなことをすれば、相手はつけあがるだけだと思います。甘えさせるだけだと思います。図に乗ってもっともっとと要求するようになるかもしれません。しかし、イエスは徹底的に「敵を愛しなさい」と語ります。心の底から「憐れみ深い者になりなさい」と教えます。

III

 このことは一体どういうことなのでしょうか。できるはずもない理想を語っているのでしょうか。実際イエスのこの考え方のことを理想論だとしてできるはずもないと笑い飛ばしてしまおうとする人々もたくさんいます。実行することは不可能だとしてしまおうとする人々もたくさんいます。けれども、わたしはそのように受けとってしまっていいのか気にかかるのです。もっと重く受けとめなければならないのではないかと考えてしまうのです。
 というのは、わたしたちには「そんなことは理想論だ」とか「実行は不可能だ」としてやろうともしないことがたくさんあるのではないかと思わせられるからなのです。そして、やろうともしないことによって、色々な事柄がとりかえしのつかないことになってしまっているのではないかと思わせられるからなのです。わたし自身決して能力のある人間ではありませんから、できることは限られています。でも、できることなのにめんどくさいとか時間がないとかそんなふうに言い訳して、やらないで済ませてしまっていることが度々あるのです。「仕方ない」と、「あきらめた」と言ってしまっていることがあるのです。やりもしなかった事柄のことを考えるのはつらいです。皆さんとの関係の築き方でもそのようなことはたくさんありました。もっと丁寧に話すべきだったとか、もっと優しくすればよかったとか、そんなことを今になって反省させられます。きれい事じゃ世の中は動かないんだと言われます。確かにそういう面はあります。でも、「こうありたい」とか「こうすべきだ」とかいうような理想を失って、現実だけを見つめていても希望は生まれてこないのではないかと思うのです。理想があるからこそそこへと至る道がある。少なくても目標とするものはある。過程(プロセス)がある。できることがどんなに限られていたとしても、誰にでも理想はあるはずだし、なりたい自分はあるはずです。それなのに、最初からあきらめて、「できない」とか「やらない」であったとしたなら現状維持以上のことは望めないだろうと思うのです。そして、やがては手遅れになってとりかえしのつかないことになってしまうのではないでしょうか。
 この世界のことについてもそうです。やられたらやり返すというような力の論理が展開されていて、わたしたちの生きるこの国もその中に巻き込まれていっています。力の論理の中で、たくさんの人々が爆撃の中にさらされている。たくさんの人が飢えに苦しんでいる。勉強したいと思っても勉強する道具や学校に行く時間がない子どもたちがいる。小さなうちから一家の労働力として働きに行かなければならない子どもたちがいる。その反対側に、豊かな生活を当然のこととして受け入れ、そのくせ不平や不満ばかりを口にしてしまうわたしたちもいます。そのことを考えるとき、わたしは思うのです。どこかが間違っている、と。そして、このままどんどん進んでいったら、とりかえしのつかないことになってしまうのではないかと思うのです。誰も爆撃にさらされず、飢えに苦しむことなく、子どもたちが子どもたちとして生活できる。そういう世界こそが理想です。そんなことわかっているはずです。それなのに、この世界は理想から遠いところにあります。さらに、どうせ理想の世界なんて来るわけはないんだとあきらめて、それが運命なんだと納得しようとしています。あるいは、やられたらやり返すことこそが正義だと、自分が嫌いな人々、憎たらしい人々は不幸であってもかまわないんだと信じこもうとしています。他人の不幸を笑ったり、他人の幸せを妬んだりしながら、どんどん理想から遠いところへとむかって歩き続けています。
 イエスが語るのは理想かもしれません。いや、理想でしょう。けれども、力の論理でもって、やられたらやり返すという考え方の全く逆にある論理です。愛の論理と言ってもよいかと思います。彼が語った理想はわたしたちが普段考えていることの対極にあることだと言ってよいと思います。やられたらやり返すことはエンドレスで続いていきます。一発が二発になり、それが倍になり、また倍になり、どんどんエスカレートしていくことでしょう。終わりは見えないでしょう。でも、殴られたらそこでとめる。やり返す以上に勇気が求められることです。仕返しはしない。やり返さない。もちろん殴られたら痛いです。不快なことです。だから我慢が必要です。忍耐力が必要です。しかし、何かを変えることができるのは、何かの流れをとめることができるのはそういうことなのだと思うのです。今わたしたちの生きるこの世界に一番求められているのはそのようなことだと思います。力の論理ではなく、愛の論理が求められているのだと思うのです。イエスという一人の男がわたしたちに示すのはそのような事柄なのではないかとわたしは考えるのです。
 そして、わたしたちの身近なことについても同じです。見返りを求めずに他人を思いやることの大切さ、惜しみなく与え続けることの尊さをわたしはイエスの姿に学びます。まだ、間に合います。きっと間に合います。とりかえしのつかないことになってしまう前に、わたしたち自身にできることがあります。それぞれ自分の理想をもう一度確認してみたいと思います。できることを惜しむのではなく、できないことを嘆くのではなく生きていきたいと思います。幸いなことに、わたしたちにはまだまだ生きられる生命があり未来があり希望があります。これから先の未来をどのように拓いていくのか。今日わたしたちそれぞれはイエスから問いかけられているのだと思います。それに対して誠実に答えを見つけようとしたいと願っています。(2003年度卒業礼拝)

 

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弘前学院聖愛高等学校
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