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土の器として生きる

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

新約聖書 コリントの信徒への手紙II 4章7節


I

 わたしは陶磁器とガラスのグラスを集めるのが好きです。先日もあるところに行ったついでに小鉢を何個か買って来てしまいました。以前に同じようなものを使っていたのですが、床に落として見事に割ってしまったので新しいものを探していたのです。買い求めるときにお店の人に「実は以前落として割ってしまったもので、同じようなものを探していたんです」と言いました。店の人は「器は必ず壊れるの。使っている限り壊れるの。でも、壊れるのが嫌だから飾っておくとしたらせっかく買った意味がないでしょ。おいしい料理を入れて使ってあげてね」と言いました。わたしはこの言葉が何故か心に残っています。
 器とは何かを入れるものです。料理であったり、その他のものであったりするでしょうが、何かモノを入れることによって意味をなすものです。もちろん飾っておくことに意味がある、何も入れないで見ることに価値がある器もあるでしょう。でも、わたしはそういうのは高くて買えないせいもあって博物館で眺めることにしています。そして、器という言葉はわたしたち人間の才能であるとか能力、引いてはその人自身のことを言い表す言葉としても使われるものです。あの人は器が大きいとか、この人は器が小さいとかそういうふうな言い方でもってです。人間というものを言い表そうとするときのこの器という言葉は、できる限り大きくてめったにない器が良い器で、小さくてありふれた器は良くない器のような印象があります。

II

 今日の聖書において、パウロは「このような宝を土の器に納めている」と言っています。わたしたち人間が土の器であって、そこには何か宝物が盛られているのだと言っているのだろうと思います。ここでパウロは、器が大きいとか小さいとか、使いやすいとか使いにくいとかそういうことは言っていません。値段が高いとか安物だとかも言っていません。あるいは、その器がきれいだとかありふれているとかそういうことも言いません。ただ、わたしたちはそれぞれ土の器であって、そこに宝物を盛っていて、その宝物は神さまが与えてくれたものだと言っているだけです。
 久しぶりにこの箇所を読みながら、今ここにいるわたしという器はどんぶりなんだろうか茶碗なんだろうか、それとも小鉢なんだろうかと考えてしまいました。でも、聖書はそんなことは語らず、ただみんなが土の器なんだとだけ言っています。でも、土の器であって、銀や金ではないのです。器自体が博物館に飾っておく価値があるとか値段が高くて誰も買えないというようなものではないということです。確かに世界中でたった一個しかない器なのだけれど、めったにない貴重で高価なものではないということです。

III

 にもかかわらず、一個の器にはその器にしか入れられないものがあるのだと思います。それがパウロの語っている宝物なのだと思います。一体わたしという器には何かが盛りつけられているのだろうかと考えてしまいます。空の器で、何も盛りつけていなかったら嫌だと思います。たとえ、傷ついてしまうことがあったとしても、壊れてしまうことがあったとしても、何かを入れて使うことこそがわたしという器の使われ方だと思うからです。
 「どんな人生を盛りつけるんだい」と神はわたしたちに問いかけているのだと思います。わたしたちはそれ自体がたいして高い器ではない、単なるありふれた一個の器です。多分そんなに大きいわけでもないのでしょう。しかし、盛りつけるものによって、その器はかけがえのないものとなり得るのだと思います。そして、何を入れるのかは自分で選べるのだろうと思います。自分自身で選び取った何かを入れ使われるとき、わたしたちは土の器にすぎないけれど、かけがえのないたった一個の器となるのでしょう。そういう存在として神に用いらるのでしょう。宝物の入った器となれるのでしょう。果たしてわたしたちそれぞれはどんな人生を盛りつけるのでしょう。壊れるまで、一個の器として用いられ続けたいと願います。用いられることにこそ意味があると信じるからです。

 

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弘前学院聖愛高等学校
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